サイトマップ
とさあちホーム
  暮らしいきいき 高知が見える 『とさあち』  

ホームとさあち五大陸ネット > オージー・スタイル

オーストラリアの静子さん(シドニー在住、高知市出身)、美香さん(シドニー在住・高知市出身)が、オーストラリアの自然や文化と土佐とのつながりについて語ります。

 

2008年1月アーカイブ

ship01.JPG
オーストラリアの夏は長いです。

この長い夏休み(私学では12月5日~1月30日、公立では1月22日~1月30日)に宿題があるわけでもなく、自由研究などのプロジェクトがあるわけでもない子供たちは、ただひたすら暑い日々をどうやって楽しく過ごすかに専念しなくてはいけません。

家族で旅行に出かけられる余裕があればともかく、そうそう毎日お金をかけて出かけることもできないので、近所の公園に行ったりお友達と遊んだりが中心ですが、時々映画を観たりプールやビーチに行ったりします。

子供が13歳になるまで、1人で家において出かけることが法律で禁止されているので親も大変。

家庭にいられる主婦なら子供たちにお付き合いすることもできますが、夫婦ともに職業を持っている場合はテニスなどのスポーツキャンプや街の自治体が運営するホリデープログラムに申し込んだりします。

                                                                                             美香

【写真】海の家などはないので、ビーチから手をふるとやって来る。アイスクリームやコーヒーが買える船のお店

よろしければポチッと押してください→人気ブログランキングへ 

oze02.jpg
 移民が入植しはじめたころから、アボリジニの抵抗が始まりますが、近代の武器を相手に狩猟の道具です。1838年のMyall Creek の虐殺では、28人のアボリジニが死亡、その責任を問われた白人が処刑されました。が、その後も飲み水や食料に毒を混入させる行為やさらなる虐殺が行われ、記録には残されていないものの、その死亡数は1万人とも2万人とも言われています。

 その間の白人の死亡数も3000人に上りますが、1870年には居住可能な土地はすべてイギリス人によって入植され、生き残った極めて少数のアボリジニは入植不可能とされた土地に住むことを余儀なくされたのです。

 1869年から1969年にかけて行われた政策(俗に「StolenGeneration」と呼ばれる)は、崩壊寸前のアボリジニ文化にさらに追い討ちをかけます。どうやっても自分たちの文化(文明)を受け入れないアボリジニを改革するという名目で幼い子供達を親から引き離し、白人家庭や政府、教会が管理する施設に住まわせ、英語を教えヨーロッパ文化の中で育てたのです。

 現在私が住んでいるシドニーの北地区のあたりもたった300年くらい前までは、たくさんのアボリジニが海からの産物を獲り木の実を集め、土地の神々に祈りを捧げて暮らしていたはずなのですが、そのことがかすかにうかがえるのは、このあたりに住んでいた部族の名前Cammeraygalが、街の名前として残されていることぐらいでしょうか。

 オーストラリアには一年に一度、アボリジニに対して素直に謝ろうという日”National Sorry Day”というのがあります。残されたアボリジニたちも何とかして失われた自分たちの文化や言語を取り戻そうとしています。

 限られた土地の中で、まったく違った文化をお互いに尊重しながら、平和に暮らしていくにはいったいどうすればよいのでしょうか?そんな質問を私達に投げかける日でもあります。

                                              美香

【写真】世界最大のつり時計、グレートオーストラリアンクロックに描かれたアボリジニの子どもたちが親から引き離される様子(シドニーのクイーンビクトリアビィルディング)

よろしければポチッと押してください→人気ブログランキングへ 

hanabi02.jpg
 アボリジニに関する話題は次回に回して、ちょっと新年の話題を。

 プレゼントショッピングで忙しく駆けずり回ったクリスマスも終わり、ホリデー気分のまま、シドニーの新年は花火で始まりました。

 私たちは、見晴らしの良い高層アパートにお住まいの友人にお願いして花火見物をさせていただくのが恒例となっていますが、シドニーハーバー周辺のいたる所でたくさんの人たちが迫力の花火を間近に見ようと昼間から場所取りをして押し合いへし合いの状態だったようです。

 絶好のポジションと言われるミセスマッコ-リーズチェアーでは、午後6時には定員オーバー、安全のためその後やって来た人たちは帰されたそうで、ちょっとお気の毒。

 こちらの子供たちは基本的に早寝早起きなので「12時まで起きてられない子どもたちのために」と9時から10分間ほど最初の花火が打ち上げられます。

 それから大晦日のカウントダウンまで食べたり飲んだり遊んだりしながら、夜ふかし慣れしたうちの子供たちはしっかり起きていましたね。さすがに0時には超ハイな状態で「たまやー!」ではないけれど、” Oh, yah~! Wow” と大騒ぎしていましたが、街全体がお祭り騒ぎ状態なので、もちろん誰からも文句は出ませんでした。

                                         美香
 

【写真】シドニーの夜空に開く大輪の花

よろしければポチッと押してください→人気ブログランキングへ 

  ヨーロッパ人がオーストラリアに上陸する以前のアボリジニ人口は、約25万人から100万人と想定されています。

 彼らが砂漠の民であるという一般的な認識は間違いで、広いオーストラリア大陸の全土、つまり温暖な北部の海岸沿いから寒冷な山間部、南のタスマニア島まで、その土地に合った生活習慣をしていたようです。

 特に海岸沿いや川沿いの土地には人口が多く、漁をしたり、植物を集めたりする習慣があり、砂漠に住む部族は乾いた土地で何十キロも離れた仲間と交信しながら狩猟をしたり、飲み水を探すすべを知っていたりするわけです。

 その土地の風土に合った習慣を何万年にも渡って築き上げたのですから、慣れ親しんだ食べ物や守り神を離れ、そこ以外の土地で暮らすことは出来ないのです。

 1770年にイギリス海軍のジェイムス・クックがオーストラリアの東海岸に上陸してから、アボリジニの歴史は大きく変わります。

 イギリスから最初に持ち込まれたものは、今までオーストラリア大陸に存在しなかった、水疱瘡、天然痘、インフルエンザやはしかのような様々な伝染病だったのです。人口の多い海岸沿いの地区では、あっという間に病気が広がり大勢のアボリジニが死亡しました。

 そんな状態のところへ、大量の開拓者が押し寄せて来て、自分達の水と食料の確保のためにその土地にいたアボリジニの部族を追い出したのです。開拓者達から見たアボリジニは原始民族であり、土地さえあればどこででも生活できると思ったのでしょう。

 虐殺、性病のまん延で出生率は低下、開拓者達が持ち込んだアルコール、タバコ、アヘンに対して全く抵抗力がなかったアボリジニ達は現在でもその中毒症状のため苦んでいます。1788年から1900年の間にアボリジニの人口は約90%減少したと言われています。

 初期の移民が到着する以前すでに、土地の肥沃な東南海岸のほとんどの部族はその存在すらも知られないままに消え去ったのです。

                                                    美香

よろしければポチッと押してください→人気ブログランキングへ 


最近のコメント

このアーカイブについて

このページには、2008年1月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2007年12月です。

次のアーカイブは2008年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.01