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高知市で在宅医療に取り組む医師、和田忠志さんが、医療のことや日ごろ考えること、身辺のことを自在につづります。

 

8月29日日曜日に「NPO法人 在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク・高知プレ大会」が、高知市総合あんしんセンターで行われました。

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これは、福田善晴氏(ハートフルクリニック)が会長、阿波谷敏英氏(高知大学)、壷井康一氏(ネクストホームクリニック)宮本寛氏(南国中央病院)の県内有識の三人の方々が副会長となり、「在宅ケアの普及と推進」を求めて、市民団体との連携の中で開催したものです。

実は今年の10月に名古屋で大会が開かれるので、その前段階(プレ)の会議という意味もあるのですが、二年後に高知で大会を開催することが内定しておりますので、そのプレ会議という意味もあります。

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冒頭で尾崎正直知事が挨拶に立ち、「高知は高齢化が国内でも非常に進んだ県であり、それゆえ、この問題に県として先進的に取り組み、解決の道を示せば、それは他県にとっても明るい未来を指し示すことになるであろう」というような内容を話されました。まさに、そのとおりだと思います。

知事がこのような指針を自ら率先して語ってくれることに、大きな期待を私は持ちます。また、尾崎知事によれば、「これほどの聴衆があんしんセンターの大会議室を埋め尽くしたのをはじめてみる」というほどの盛況な会でした。

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午前は、ネットワーク副会長の太田秀樹氏(おやま城北クリニック・全国在宅療養支援診療所連絡会事務局長)が基調講演を行いました。この基調講演は、「医療が病院だけで行われるのではなく、家庭を含めた様々な場所で行われるべきである」という、いわば、医療のmobile性の必要を強調する内容でした。聴衆の方々は、在宅医療で何が可能かを十分にご理解いただける内容であったと思います。

午後は、それぞれ、阿波谷敏英氏、壷井康一氏、宮本寛氏の県内有識の三人の方々が副会長の方々が座長となり、安心できる生活、看取りについて、地域づくりの三つのテーマで討論を深めました。私も実行委員の一人を務めさせていただきましたが、ご尽力いただきました関係者の方々、ご参加いただきました方々に厚く御礼申し上げます。

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わが国の介護保険の認定制度は、非常に「公平性が高い制度設計」であると、厚生労働省は考えています。

この話は、第一に、「認定の結果がおおむね公平な要介護状態区分になる」という厚生労働省認定審査ソフトのアルゴリズムの精度の高さのことを言っているわけです。公平性の第二の意味は、認定を統一基準で行うことそのものに内在する「客観性」です。

ちなみに、現場でWantsに流されてケアプランを組むとすると、それは、どうしても、客観的なものというよりは、主観的なサービス提供内容になってしまいます。もちろん、利用者の好みや趣向を考慮しなければ医療も介護もよいものにならないことは間違いありません。しかし、それはそれとして、「利用者のニーズを客観的に評価する必要性」という要請に認定が答える、という意味です。

また、ケアマネジャーは専門職ですが、その出身職種により発想や得意分野が違うことがわかっています。その意味で、ケアマネジャー単独では、十分にニーズを客観的に評価することが難しいかもしれません。このため、厚生労働省が全国一律の基準で、ニーズ評価をして、大枠を定めるという理屈です。

それによって、「国民の税や保険料を投入してサービスを実施するための必要性」の評価の正しさを担保しようというものです。それは、ケアマネジャー個人が必然的に抱える給付管理の困難性を、ある程度、解決しようとしているということでもあります。

この議論には一定の説得力があるように私は思いました。現在、イギリスなど、いくつかの国がわが国の認定制度に近いものを作りたいと考えていると聞いています。

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【写真】鏡川の夜景(2010年8月10日撮影)

以上、認定制度の必要性についての討論を書いてきました。私も多くの人と討論してみて、認定制度のもたらす利点も、ある程度理解できた気がします。では、結局、認定制度を持ちながら現場の諸問題が解決可能なのか、という話になります。この点については、また改めて本ブログで書くつもりです。今回は、ここまでの討論とさせてください。

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3.わが国の介護保険制度給付が軽症者に手厚いこと

わが国の介護保険制度は、かなり軽症の方にも給付がある点が特徴とされるということです。税による公的介護制度であれ、保険による公的介護制度であれ、わが国でいう「要支援状態」のような比較的障害の軽い方々に介護を給付する国は基本的にはないと聞きます。

日本で言えば、おおむね要介護二とか要介護三に相当する比較的重い障害を有する人、およびより重度の人が公的介護制度を利用できるのが、福祉先進国を含め、各国の趨勢と聞きました。

逆に言えば、要支援とか要介護一のような比較的障害が軽い方々の場合は、身体介護というよりは、生活支援が介護保険給付の主体となる傾向があります。生活支援とは、炊事、洗濯、掃除、買い物などを行うヘルパーの行為に対する給付です。

つまり、わが国では、他国と異なり、要支援とか要介護一のような比較的障害が軽い方々にも給付の裾野を広げているために、Wants指向性のサービスになってしまう可能性の側面が大きいのではないかという議論があるというわけです。

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【写真】よさこい祭 梅が辻会場(2010年8月10日撮影)

以上、長々と述べてきましたが、つまり、「Wants指向性のサービスになってしまう可能性」というのがキーポイントです。介護保険制度は国民の拠出によって行われており、その意味では、「Needsに対して給付すべき」という建前の公費給付制度なのに、これまで述べてきたような要素が、「その建前を侵食するような給付管理の困難性をきたしているのではないか」というわけです。

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2.ゲートキーパーとしてのケアマネジャーの有効性は十分かという議論

「認定制度がない場合、給付が制限されず、適切でない利用が広がるのでないか」という危惧のもう一つの理由は、「医療保険制度における医師に比べて、ケアマネジャーのゲートキーパー機能が弱いのでは」と考えられている点です。

すでに述べたように、介護保険給付の内容は、Wants指向性のサービスになってしまう側面が大きいことがあります。そして、医師と異なり、「このサービスは現段階では必要ないからやめておきましょう」とケアマネジャーが利用者を説得することが難しい点では、明らかにケアマネジャーに不利であることです。

ここで一ついえるのは、医療は、医師という高度の専門知識を有する人間が必要なサービス内容を選択し、それを患者さんに提案するのに対して、介護保険の場合には、利用者は高度の専門知識がなくてもサービスの内容が選択できます。その意味でも、「このサービスを入れてほしい」という利用者サイドの要求にケアマネジャーが抗しがたいといえます。

また、介護保険制度には、医療と異なり、株式会社が参入しています。医療機関についていうと、もちろん、「医療機関が株式会社に比べて営利性がなく、公益性が高いところばかりである」はずもないのですが、介護保険制度に参入した株式会社ではグッドウィル(コムスン)の例もあり、営利的な活動に対する警戒感があります。

ケアマネジャーにはサービスを提供する側の株式会社所属の人もあり、どうしても、ケアマネジャーが所属する会社の意向を汲んで、サービスを提供する側面があるのでは、という危惧が語られています。

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【写真】筆山上空に上がる花火(2010年8月9日)

和田の解説

和田の考えでは、厚生労働省は、「医療保険制度においてできなかったことを介護保険制度で試したこと」が二つあると考えています。それは、「混合介護」と「株式会社参入」です。(「混合介護」は正式な用語ではなく、和田の造語です。このブログで便宜的に使わせてもらっています)

医療では、「混合診療」は禁止されています。「混合診療」とは、保険診療と、自費(保険外)診療を併用することです。実際には、診察時間内に自費の予防接種を行うなどは行われていますが、基本的には混合診療は医療保険制度では禁止されています。しかし、介護保険制度では、支給限度基準額以上のサービスを使用したいときには、自費でいくらでも同時並行でサービスを利用することが可能です。つまり、「混合介護」が最初から、制度に組み込まれています。

わが国では、株式会社は、現在も医療機関を経営することができません。米国などでは普通に行われていることですが、わが国では、ごく一部の例外を除いて、株式会社の参入が認められていません。高知医療センターでは、間接的な株式会社の運営支援を受ける形態を試みましたが、うまくいかなかったことは耳に新しいところです。

しかし、介護保険制度においては、最初から、株式会社の参入が認められており、ホームヘルパーなどの居宅サービス事業所も、ケアマネジャーの事業所である居宅介護支援事業所も株式会社が運営することが認められています。(しかし、特別養護老人ホームなどの経営には株式会社は参入できていません)

介護保険制度によるサービスが、同制度施行後、急速に全国津々浦々に広がったことは、株式会社参入を許したことの功績の一つといえなくはないかもしれません。しかし、コムスンの苦い経験もあり、株式会社を公益的な事業で活動してもらうことには賛成の意見ばかりではないようです。

五島正規先生は、この二つのほかに、ゲートキーパーとしての認定制度が介護保険での新しい制度設計であるというご意見を持っておられます。

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医療保険と異なる給付管理の困難性

認定制度が必要と考える有識者および厚生労働省担当官の最大の懸念は、「認定制度がない場合、給付が適切に制限されず、公費運用としては適切でない利用が広がるのでないか」ということです。これにはいつくかの理由があります。

1.Needs指向性のサービスとWants指向性のサービス

第一は、医療が「必要性(Needs)指向性のサービス」なのに対して、介護が「要求(Wants)指向性のサービス」という側面が大きいことです。

例えば、病院に行きたい人は多くはありません。「できれば薬を飲みたくない」と思っている人が多いし、「できれば入院したくない」と思う人が多く、「できれば手術を受けたくない」と考える人が多いと思います。必要であれば薬も飲むし、必要であれば手術も受けるが、できれば、そういう経験は人生の中で少ないほうがよい、と考える人が多いと思います。

医者の私ですら、そう思います。患者さんに対して、(自然の治癒力を生かして)できるだけ少ない薬で治療したい、点滴せずに口から飲食する方法を模索したい、できることなら手術を回避したいと思います。

もちろん、薬が好きな人、点滴が好きな人もいますが、それは必ずしも治療の本来の姿ではないと思います。医師は、医療の行為が「治すもの」「支えるもの」であると同時に「内科は毒盛り、外科は傷害」という両刃の剣であるという意識を捨ててはならないと思います。

したがって、患者さんが「抗生物質がほしい」あるいは「点滴をしてほしい」と希望しても、医師が「現段階では必要ないから今日はやめておきましょう」と話すことも珍しくないと思います。

ところが、介護保険給付の場合は必ずしもそうではありません。例えば、ヘルパーさんが来てくれて、部屋の掃除をしてくれたり、食事を作ってくれたり、買い物を自分の代わりにしてくれたりすることは、多くの人にとって、積極的な意味で、ありがたいことです。
「これを九割引きの値段でしてもらえる」のであれば、「ぜひお願いします」という人は多いと思います。また、ヘルパーさんが身体の世話をしてくれたり、入浴させてくれたり、デイサービスで入浴などができることも、もちろん受ける人の価値観によりますが、おおむね、これらを受けることをうれしいと思う人が多いのではないかと思います。

また、デイサービスやショートステイを受けることは、介護する家族にとっては、多くの場合、非常にありがたいことです。

ここが、医療保険給付と介護保険給付の質的な違いとされます。つまり、医療は「本当はあまりうれしくないが必要に迫られた状況」下でものを提供する「Needs指向性のサービス」であるが、介護保険給付は「本質的にうれしいものを提供するWants指向性のサービス」になってしまう可能性が大きいことです。

そして、本人や家族が、「掃除をしてほしい」「身体の世話をしてほしい」「ショートステイをケアプランに組んでほしい」という希望をしたとき、ケアマネジャーの側で、場合によっては「現段階では必要ないからやめておきましょう」と語ることは非常に難しいともいえると思います。

しかし、給付財源となる保険料や税金を出す国民の側から見れば、「基本的にはNeedsに対しては給付を行うのが筋であり、Wantsに対しての給付はどうだろうか」という話になるのが当然の論だと思います。「必要であるからこそ、国民が税と保険料を負担して、高齢者の介護を助ける」のが本来の建前のはずです。「Wantsに対してどんどん使われてしまっては困る」というのは当然の理です。

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【写真】高知空港近傍沿道の花壇(2010年7月24日撮影)

ここで私の意見を繰り返しておくと、すでに述べたように、マクロ(概観的)には、現在、認定されている限度基準額の半分程度しか使われていない現実があります。つまり、総体にみて、「国民は、公費で私腹を肥やすのではなく、必要なものだけを利用する見識を持っている」とは、私は考えています。ですから、現在、国民が、「Wantsに対してどんどん使っている」という現状ではないと思っています。

(「介護保険財政の将来像を考える」池田省三 2008年7月31日社会保障国民会議
サービス保障(医療・介護・福祉)第6回 インターネット公開資料より引用)

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私は、本ブログで既に述べたように、現場で「認定審査にまつわると考えられる問題点」が多く見えるために、「介護保険制度において認定審査は必要ないのではないか」と考えていました。これまでの私の主張を簡単に要約すると、「認定審査を取りやめ、ケアマネジャーに給付総枠決定を含めた給付権限を委譲し、必要な人に必要なだけ介護を提供することにより、迅速で柔軟な公的介護給付を実現するのがよい」というものでした。

その後、この私の考えを、私と親しい太田秀樹先生(NPO法人 在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワーク事務局長、全国在宅療養支援診療所連絡会事務局長)、元民主党衆議院議員で医療政策に非常にお詳しい五島正規先生(医療法人防治会理事長)、厚生労働省官僚の方々に話していましたが、太田先生も、五島先生も、「認定審査は必要である」とのご認識でした。また、厚生労働省担当官は、「介護保険制度において認定制度は必須であり、どうしても必要な制度設計」と考えています。

この間、私は様々な有識者の方々に意見をお聞きしてきました。その結果、現在、私は「認定制度を保持したまま、現場で感じられる様々な問題点に取り組んで制度を改良していくのがよいのではないか」と考え始めています。

つまり、一言で言うと、①家族介護に恵まれない要介護状態区分が比較的高い人が自宅に継続していることが困難な現状(要介護五における区分支給限度基準額が低すぎるのでは)という点、②第二号被保険者において疾患により給付が受けられる人が選別され疾患利権が存する点、③申請から認定までに時間がかかることによって進行が早い疾患の方々が適切な給付を受けることが困難である点、などを、「認定審査の問題」と切り離し、認定審査手続きを温存したまま、これらの現場の問題を解決する方法はないかを模索する、という議論の立て方ができないか、ということです。

もし、上記に述べたような現場で感じられる介護保険の問題が本質的に認定審査と直接的な関係がなく、認定という制度を温存しながら、介護保険制度の改良によって解決できるならば、それはそれで非常によいと考えます。その場合、問題の本質は認定審査をやっていることの問題ではなく、①②③はそれとは別の固有の問題と考えられるわけです。

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【写真】晴天の日の筆山
(あおぞら診療所高知潮江より撮影2010年8月8日)

この討論の前提として、この間、私が有識者や厚生労働省の担当官(老健局長、老人保健課長、同課長補佐の方々ほか)たちにお聞きした介護保険制度における認定の位置づけについて、まず述べてみたいと思います。(ただ、この辺は厚生労働省も十分に市民や医療福祉の有識者に説明ができていないところだと感じています。私以外にも、「認定審査をやめたほうがよい」と考える論者は少なくないからです。)

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私は東京で生活し、関東出身の人と間違えられるところまで東京弁を会得したと自負しています。私が関東にいるとき、私を関東外出身と言葉から見破れる人はいません。また、高知で、高知の人と話すと、やや古典的でかなり純粋な土佐弁で話すので、私が高知の人であることを疑う人はいないと自負しています。

恐縮ですが、バイリンガルといわせてもらおうと思っています。しかし、私が東京弁をほぼ完璧に話せるようになるまでに7年間の意識的なトレーニングが必要でしたので、首都圏から高知に転勤して一年では、土佐弁を理解したり話したりすることは困難だろうと推測します。

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土佐弁中級編

「が」(の)、まっこと(まったく)、「ぜよ」(んだよね)とか、「ほいたら」(そしたら)、「いかんちや」(だめだよう)、とかの比較的類推しやすい言葉は、置き換えで理解していけるのですが、他県の人からみて、土佐弁で難しいものの一つは動詞に接続する「ちゅう」と「ゆう」の使い方です。

「雨が降りゆう」というと、今まさに雨が降っている状態を表現し、「雨が降っちゅう」というと、道などが濡れていて雨が降った形跡があることを指します。「雨が降りよった」というと、その場面を思い出して、雨が降っていた状態だったことを回想していること、「警察官が来ゆう」というと、警察官がまだ現場に到着していないが来つつある状態を話者が観察している(あるいは来つつあることを伝聞などで確認している)ことを指し、「警察官が来ちゅう」というと、すでに警察官が現場にいることを指します。「警察官が来ちょった」というと、すでに警察官が現場から立ち去ったあとを表現します。

この言葉は、標準語の「来てる」「来た」などで表現されない土佐弁特有の時制であり、理解が困難なようです。

もうひとつ難しいのは、のうが悪い(具合が悪い)、まぎる(じゃまになる)、ちびる(磨耗する)、こじゃんと(とても)、たごる(咳をする)、わりことし(いたずらっ子)、難儀な(苦しい)、などの標準語にない単語を覚えることです。

これらの単語を会得して使えるようになると、かなり土佐弁の深い理解に至ったといえると思いますが、なお、これらは中級であると思っています。私が上級編と思うのは、「同じ言葉だが違うもの」「言葉の組み合わせの異なるもの」の会得です。

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土佐弁上級編

たとえば、「太い」という言葉です。「おう、おまんくの子供さんも六年生かねぇ、うんと太ったねぇ」(おう、おまえんとこの子供さんも六年生だっけ、とても大きくなったねぇ)というと、子供はやせていても問題ないわけです。

この「太った」というのは大きくなったのであって、身長などが伸びたことを主に意味します。「こないだねぇ、チヌを釣りに行ちょって、うんと太いががかかったがやけんど、逃げてしもうてねぇ」(こないだ、チヌを釣りに行ってて、とても大きなのがかかったんだけど、逃げてしまってねぇ)というと、このチヌは「丸々太ったチヌ」という意味ではなくて、「大きな魚」であったことを意味します。こういうものの理解が難しいのです。

それから、「おなかが張る」や、「うるさい」です。高知で「おなかが張った」というとしばしば快感を伴う満腹感を表しますが、関東では「おなかが張る」というと病的あるいは不快感を表す意味となり、満腹感の意味はありません。

高知で「うるさい」というと、単に「やかましい」の意味ばかりでなく、「苦しい」の意味にも使用されますが、東京弁には「やかましい」の意味しかありません。

土佐弁で「えらい」というと「偉大である」という意味のほかに、「苦しい・つらい」という意味がありますが、東京弁にはその使用法はありません。

「ごくどうもん」というと、土佐弁では「ぐうたらな人」を主に指しますが、東京弁では「やくざ」という意味に特化されて使用されます。こういう言葉の理解や使用法が難しいのです。

それから、お金を両替するとき、高知では「お金をこわす」といいますが、東京弁にはこの表現はなく、「お金をくずす」といいます。預けてあるお金を銀行から戻してもらうことを高知では「お金を引く」と言いますが、東京弁は「お金をおろす」です。

「髪をつむ」「爪をつむ」は土佐弁で、この表現法は東京弁には存在せず、東京弁では「髪を切る」「爪を切る」という表現しかありません。一方、「花を摘む」は土佐弁と東京弁で共通です。

このような表現で、土佐弁を使用できるようになったとき、その人は、本当に土佐弁上級に達したと考えてよいのではないかと思います。

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「私ね、高知新聞のブログに書きいうがやけんど、土佐弁のことらー書いたりしゆうがよ。『たっすいがは、いかん』らあいう、土佐弁で書いちゅうキャッチフレーズらあの看板らあがあったら写真撮っちょってくれんろーか?」(私ね、高知新聞のブログに書いてるんだけど、土佐弁のこととか書いたりしてんだよね。『切れがないのは、だめだ』とかの、土佐弁で書いたキャッチフレーズなんかの看板とかがあったら写真撮っといてくれない?)という話を聞いた同僚が、飲み屋に行って、「たっすいがは、いかん」の写真を撮ってきてくれました。


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とてもよく撮れているので、載せたいと思います。三枚目には、「ビールが好きやき、ラガーが好きながよ」(ビールが好きなんで、ラガーが好きなんだよな)というところも土佐弁で記載されているのが面白いです。

それから、これは以前にも紹介した潮江天満宮親祭の写真のもう一枚です。「昔からこじゃんとうまいアイスクリン」(昔からとてもうまいアイスクリン)です。

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それから、これは、私が高知の街を往診で回っている途中で運転手をしている職員に「ちょっと、そこで車とめてくれん、ちょっと待ちよってよ」(ちょっと、そこで車止めてくれない、ちょっと待っててね)と車を止めてもらい、撮ったのが学校の無断立ち入り禁止の札です。前回ブログで出した「はいられん」(入ってはいけません)の札は老朽化していて、字も色あせていましたが、今回の札は新しいものです。このような高度に実用的な札が子供向けに意図的に方言で書かれているのが感動的です。

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高知は、実は非常に方言が純粋に残っている場所ではないか、と改めて感じています。お年寄りでは、「完全に土佐弁でのみコミュニケーションを行うことを前提に話をする人」がとても多い点も、私にとっては印象的です。首都圏からあおぞら診療所高知潮江に転勤してきた職員は、一年以上高知に滞在後も、土佐弁の理解に苦しんでいるようです。

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2010年8月7日土曜日に、高知市総合あんしんセンターで、南部地域ケアカンファレンスが行われました。

これは、「高知市医師会」が事務局となり、地域の医療・福祉関係者(施設ケアおよび在宅ケアを含む)の方々に呼びかけて、困難な事例について発表したり、知恵を出し合い、地域ケア・地域医療を振興させようと行われているものです。

私は、このカンファレンスの実行委員の末席を汚しています。高知市医師会は、高知市内を四つのブロック(北部・東部・南部・西部)に分けて活動を進めていますが、今回は南部地区のカンファレンスが行われたわけです。

会議には60人程度の聴衆が集まり、地域で精力的な活動をしている介護支援専門員(ケアマネジャー)お二人の事例報告を聞きました。

それぞれのケアマネジャーが出されたのは認知症とがんの事例でしたが、いずれも、病気としても重く、サポートの体制を作ることが難しい状況の中で、ケアマネジャーや医療従事者が連携しながら、患者さんや家族を真摯に支援している様子を聞くことができました。

このような困難な事例ゆえに、活発な質疑も行われ、非常に有意義な会でした。また、この会議には高知市の介護保険課長も出席して討議に携わっています。介護保険課長自ら、さまざまな困難事例に関するケアマネジャーの相談に応じているということでした。

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二次会は、新阪急ホテルのビアガーデンで行われました。天気にも恵まれ、満員のビアガーデンの一角で、医療・福祉・介護予防従事者の交流の場がもたれました。

高知では、地域ケアや在宅ケアに関するさまざまな勉強会が多く、私たちも勉強の機会に多く恵まれています。今度の南部地区のカンファレンスは10月ごろに開催される予定です。

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菅首相は所信表明演説で、『新内閣は、「強い経済」、「強い財政」、「強い社会保障」の一体的実現を、政治の強いリーダーシップで実現していく決意です。

まず、「強い経済」の実現です。一昨年の金融危機は、外需に過度に依存していた我が国経済を直撃し、他の国以上に深刻なダメージを与えました。強い経済を実現するためには、安定した内需と外需を創造し、富が広く循環する経済構造を築く必要があります。』(高知新聞ホームページより)と述べています。

『「強い社会保障」では、経済、財政、社会保障はそれぞれが互いに好影響を与えるものと認識を示し、安定的な社会保障の提供は、国民の安心を約束し持続的な成長を導くとした。』(民主党ホームページより)とあります。私も同じ気持ちです。

私の希望は、端的に言って、「とにかく未来の世代にツケを残さないでほしい」ということです。赤字国債は「将来の国民の税金を現在の国民が使用する」ことを意味します。つまり、「自分たちの子供や孫やひ孫の税金」で今の人たちが潤うことです。非常に不合理なことだと思います。

それよりは、勇気を持って「今の税収の増加」をしてもらいたいと思います。税収の増加のためには、経済の活性化や増税などの方法があります。「今の増税には勇気がいるが、将来の増税はなしくずしに赤字国債を発行してできてしまう」ことがあり、政策的に「今の増税より将来の増税がやりやすい」というパラドックスがあります。

こういう手段で後世の国民を苦しめることはやめたほうがよいと思います。今の人たちは今の人たちの力で潤うべきで、「人口が減り、国力が低下することが分かっている将来の国民」の税金を、もうこれ以上使用すべきではないと思います。

そのためにも内需の活性化は重要だと思います。高齢社会は国民の福祉の内需が増える社会でもあります。内需の拡大により、国そのものを豊かにしながら経済を活性化し、今の人の税金で、今の政策ができるようにしてほしいと私は願うばかりです。

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