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高知市で在宅医療に取り組む医師、和田忠志さんが、医療のことや日ごろ考えること、身辺のことを自在につづります。
2008年12月アーカイブ
岡村は1962年、写真家として出発したとき、PANA通信社と契約し、その通信社のバンコク支局に行く途中にライカのカメラを購入し、中国人の支局長にフィルムの入れ方を教えてもらったといいます。岡村いわく、「フィルムのつめ方は知りませんでしたが、何にレンズをむけるべきかは知っていました」。
彼は、はだし歩き、自分が敵ではないことを示すために、「日の丸」の旗をつけた竹ざおを肩にくくりつけ、ラオス国境のゲリラ戦場に乗り込んだということでした。
岡村曰く、「報道写真とは何か?一言で答えれば、証拠力の強い写真をとることだと思います。…「この写真はいい絵になる」なんてことをよくいいますが、絵になる写真なんてないんです。写真は写真です」
岡村昭彦は、テクニックではなく、魂で写真を撮り続けた人であることが分かります。岡村の写真は、カラフルな写真というイメージのものはなく、リアルな、強烈な写真です。彼は、報道写真家には透徹した世界観が必要だと感じていたようでした。彼は、賀川と同じように恐ろしく博識で、「写真で写るものの奥にあるバックグラウンド」を知ることが
証拠力の強い写真を撮る源泉と考えていたと思われます。
そして、彼は、そのような「生と死にかかわる人間観」から、ホスピスに向かったといえます。ホスピスに関しても、医療の歴史や世界の現状についても、岡村は専門家よりもはるかに豊富で深い知識を持っていました。岡村の著書は難解で、医療に関する部分であっても、私どものような専門家でも読むのに苦痛を覚えるような情報量の凝集した書です。
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読者のみなさまは「ホスピス」という言葉を聞いたことがあると思います。「ホスピス」はわが国では、がんの末期の方が入院する病棟というイメージがありますが、もともとは、クリスチャンの運動として、アイルランドに生まれ、イギリスや米国で発展したものです。
それは、元来、死期の近い患者さんをサポートする活動全般をいうのであって、病院とか在宅を問わないものです。がんであるかどうかも問いません。「ホスピス」という言葉は、病院という意味の「ホスピタル」、歓待という意味の「ホスピタリティー」などと語源を同じくしています。
岡村昭彦(1929~1985)という報道写真家がいます。私たち医療従事者の間では比較的よく知られている人です。この人は、1980年ごろ、日本に最初に系統的に「ホスピス」を紹介した人です。
私は学者ではないので不勉強ではあるのですが、まず間違いなく言えることは、その後、岡村の紹介を越えるホスピスの紹介は皆無と思われることです。それほど、岡村昭彦のホスピスの紹介は奥の深いものであったということです。
岡村昭彦は、国際的な活動家・写真家で、ベトナム戦争を撮影した人ですが、その活動の後、精神病院でボランティアをし、そして、わが国でホスピスに関するセミナーを開くようになりました。
岡村のテーマは、ずっと「「いのち」はどう大切にされているのか」であったように思います。岡村は、「虐げられた人との一体感」を追究し続けた、と言い換えてもよいと思います。
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養育の手法では「家族に近い形態の養育」がよいと石井は考え、母親代わりの女性職員がつき、年齢の異なる子どもが15人のグループに分かれて生活する形態を採用したといわれています。
また、「食が足れば盗みなどを行わない」という石井の信念(「満腹主義」)があり、彼は食事量の制限をせずに食事をさせたと言われています。また、子供が嘘をついたり、けんかをするのは、体罰に発すると考え、非体罰主義を通したといいます。
すでに書いた賀川豊彦などの活動現場を考え合わせると、いかに石井の活動が先進的かが思い知られます。大正や昭和初期でさえ、子供は売買されるなど、金銭的な取引で虐待を受けるのが珍しくありませんでしたが、石井は、その前の明治時代に、キリスト教的博愛主義に基づき、子供を全面的に救済し、自立させる活動を開発しています。
その教育手法も、しっかり食べさせる、非体罰主義など、現在も十分通用する手法を用いています。また、当時の孤児院は、現在の児童養護施設と異なり、石井を含めた職員が院内に子供と一緒に寝泊りをしていたことでも家庭的環境をもちえたと思われます。
現在、孤児養育は完全に公的に行われていますが、この「公的に行われているという事実」そのものが石井の業績と言っても過言ではないと思います。
私の考えとしては、基本的に、「医療や介護などの社会福祉は公的に保障されるべき」と考えますが、一方では、「国や地方自治体が適切な福祉活動を思いつくことはありえない」とも考えます。
最初は、草の根や地域の活動家が、その地域で必要を感じ、あの手この手で不採算を省みず実験を行い、その公益性が国や地方自治体に知られ、その活動が国や地方自治体の仕事になっていくプロセスを踏むと考えています。
地域の活動がまず最初にあり、「国や地方自治体はついてくる側である」といえます。その意味で、地域現場の活動家の責任は重いと思っております。
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石井の生きた時代は激動の時代で、明治維新(1868)、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)という時代です。
岡山孤児院には知育の融合を目指して小学校を付設し、さらに学才のあるものには高等教育を受けさせました。
孤児院では男子には活版と理髪、女子には裁縫を学ばせ、実用的な技能をつけて自立を促しました。こうして、総計二千人以上の孤児を引き取り、養育したとされます。
彼は、身体は頑強で巨漢でしたが、おそらく、今でいう「躁うつ病」のようなものがあり、感情が不安定なことがしばしばあったようです。非常に魅力的な人間だったらしく、協力者が多かったと思われ、寄付金で孤児院を運営しています。キリスト教関係者を中心として、国内外から多額の寄付金を集めたとされます。
彼にはさまざまな協力者がいますが、炭谷小梅という女性と、山室軍平が大きな理解者であったといわれています。炭谷小梅は石井の運営する孤児院運営の主要なメンバーでした。山室は、その後、「救世軍」の最初の日本人司令官となったことで有名なので、ご存知の方も多いと思います。
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みなさま、こんにちは。読者のみなさまは、石井十次(1865~1914)という人を聞いたことがありますか。日本で最初に孤児院を作った人です。
明治から大正にかけて活動し、「孤児の父」「社会福祉の父」と呼ばれる人物ですが、残念ながら、戦後の日本ではあまり有名ではありません。私は、千葉県で県の指定する「中核地域生活支援センター」という福祉の事業所を設立するにあたり、いろいろな人と討論するうちに、「石井十次」という歴史上の人物を知りました。
彼は、慶応元年(1865年)に、現在の宮崎県で下級武士の長男として生まれました。当時の初期教育を受けたあと、岡山市で医学校に入り、医師を目指しますが、貧しい母子に出会い、その長男を引き取り、その後にも、すぐに他の二人を引き取ります。
これがきっかけとなり、明治20年(1887年)に日本最初の孤児院を設立します。その後、孤児救済に専念することを決意し、岡山の医学校を中退します。この間、カトリック入信を経て、プロテスタントに入信します。彼は、キリスト教を運動の中心的理念にすえ、孤児院はキリスト教主義に則って運営されました。
明治25年(1892)には、濃尾地震(1891)に被災した孤児のために、一時的に名古屋市に孤児院を開設し93名の孤児を収容したり、ルソーの影響を受けて「自然・労作」教育を目指し、理想的な農村共同体を実現することを考え、岡山から宮崎に孤児院を移転したり、大阪に孤児院を作ったりします。
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