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高知市で在宅医療に取り組む医師、和田忠志さんが、医療のことや日ごろ考えること、身辺のことを自在につづります。

 

福祉の最近のブログ記事

鎌倉時代には日本に特徴的な仏教が隆盛しました。主要なものは、法然や親鸞に代表される浄土宗・浄土真宗、日蓮に代表される日蓮宗、栄西や道元に代表される禅宗(臨済宗・曹洞宗)です。私は鎌倉仏教は非常に示唆的だと思っています。

特に法然・親鸞と、日蓮は、同じ比叡山からでて、やや異なる学問体系を信じるけれども、結局、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」という、一つの言葉だけを唱えれば、救済されるという、そういう方法を説きます。

鎌倉時代、庶民の平均寿命は10歳に満たなかったかもしれません。私の知っている知識からの鎌倉時代の庶民実態の想像を話します。庶民の多くは、裸足に木の皮をまとって暮らし、言葉は話すが基本的には文盲だったと思います。

庶民は成人するまでに、多くの者が感染症とけがと飢餓で死に、成人に達する少数者は多くの感染症への免疫を獲得しています。出産で多くの女性は死に、一族が食べることができなければ、子供を間引きしたり、人身売買も珍しくなかったと思います。

狼や熊に襲われて死ぬ者もあり、誘拐される者もあります。人は容易に病に倒れ、あっけなく死ぬため、薬草などの民間療法は利用されているにせよ、伝説や神話が信じられ、祈祷が病やけがへの大きな対処法です。

日蓮、法然・親鸞などは、当時としては、ごく少数の高級知識人ですが、高僧のような知識人が行うことは、庶民から見ればあまりにも大きな知識差があるため、魔術的にすら見えたのではないかと思います。

そういう…今の日本人からみれば、無知蒙昧な、そして、権力者の圧政(物や使役での税務)に苦しみ、天変地異に苦しみ、次々と容易に死んでいく。

そういう庶民を救うためにはどうすればよいか。概念的な法話が理解できる人はよいとして、そういう概念的な思考すら可能でない人に「概念的思考の努力」や「論理的な理解」すら必要ないとする手法を編み出したのが法然・親鸞の天才ではないか、と思っています。

(文盲で、理解力が乏しくても)「一言を信じて唱えれば、あなたは救われる」…そういう力強いメッセージで庶民を救済しようとしたのが彼らの智慧だった、と私は思っています。

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親鸞の弟子である唯円が記載した親鸞の口伝といわれる「歎異抄」という本があります。私自身は、天理教の家に生まれましたが、現在、どの宗教にも信仰を持ちません。

信仰を持たないので、宗教に対して本当には真摯な思いで接していないとは思うのですが、それでも、さまざまな宗教の経典などを読むと、感銘を受けることが多くあります。親鸞は、ご存知の方も多いと思いますが、法然の弟子であり、浄土真宗の創始者です。

浄土真宗は、信者の自分の無力と業の深さを自覚し、自分の力ではなく、阿弥陀如来の力で成仏するという教義を有し、他者(阿弥陀如来)の力に依存するため、「他力」の宗教といわれます。その「歎異抄」の有名な文章に次の文があります。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」と云々。

信仰ですから、文章には、阿弥陀如来の力を「信じる」ことが用件になっているのですが、それはともかく、「摂取不捨のことわり」に大きな共感を私は覚えます。というのは、救済というのは、本来そうあるべきだからです。

「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」とは、この世の一般基準に照らしたときに、「最も救いがたい人々」だと思います。その最も救いがたい人を優先的に助けるのが本来の救済であるというのは、極めて理にかなった話です。

例えば、医療従事者は、「もっとも重症な人」から先に助けようとするべきです。教育者でも、金八先生が「真の教育者」として思われているのは、「もっとも困難な社会的・心理的状況の子供」に果敢に時間と労力をかけて関わるからです。

社会福祉は本来、もっとも社会的に困難な人の救済にこそ精力的にあたるべきものであり、浄土真宗の考え方は、社会福祉の理念に通じるものがあると思います。国民皆保険も生活保護も、「摂取不捨」を実現しようとする人間の智恵だと思います。

阿弥陀如来の力を持ってすれば、「いかなる救いがたい人間でも救済可能」という阿弥陀如来の力強さは、別の場所にも「『唯信抄』にも、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。」と記載されており、「摂取不捨」とする阿弥陀如来の力の万能性は、衆生に大きな安心を与えるものです。

一「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて「善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」」と、仰せ候ひき。

「悪人こそが救いの対象」という理念は救済の基本理念として自然なものです。阿弥陀如来が、人間救済を業(なりわい)とするならば、「もっとも救済することが困難な人間」にこそ、エネルギーと労力をかけて救済するに違いないと思います。

マザーテレサは、「貧困者の中の最貧者(the poorest of the poor)」に着目しました。初期のホスピスの活動家は、街角でまさに死につつある人を暖かく遇することに意を注ぎました。その意味で、「悪人こそが救いの対象」という理念は非常に私にはしっくり来るのです。

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養育の手法では「家族に近い形態の養育」がよいと石井は考え、母親代わりの女性職員がつき、年齢の異なる子どもが15人のグループに分かれて生活する形態を採用したといわれています。

また、「食が足れば盗みなどを行わない」という石井の信念(「満腹主義」)があり、彼は食事量の制限をせずに食事をさせたと言われています。また、子供が嘘をついたり、けんかをするのは、体罰に発すると考え、非体罰主義を通したといいます。

すでに書いた賀川豊彦などの活動現場を考え合わせると、いかに石井の活動が先進的かが思い知られます。大正や昭和初期でさえ、子供は売買されるなど、金銭的な取引で虐待を受けるのが珍しくありませんでしたが、石井は、その前の明治時代に、キリスト教的博愛主義に基づき、子供を全面的に救済し、自立させる活動を開発しています。

その教育手法も、しっかり食べさせる、非体罰主義など、現在も十分通用する手法を用いています。また、当時の孤児院は、現在の児童養護施設と異なり、石井を含めた職員が院内に子供と一緒に寝泊りをしていたことでも家庭的環境をもちえたと思われます。

現在、孤児養育は完全に公的に行われていますが、この「公的に行われているという事実」そのものが石井の業績と言っても過言ではないと思います。

私の考えとしては、基本的に、「医療や介護などの社会福祉は公的に保障されるべき」と考えますが、一方では、「国や地方自治体が適切な福祉活動を思いつくことはありえない」とも考えます。

最初は、草の根や地域の活動家が、その地域で必要を感じ、あの手この手で不採算を省みず実験を行い、その公益性が国や地方自治体に知られ、その活動が国や地方自治体の仕事になっていくプロセスを踏むと考えています。

地域の活動がまず最初にあり、「国や地方自治体はついてくる側である」といえます。その意味で、地域現場の活動家の責任は重いと思っております。

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石井の生きた時代は激動の時代で、明治維新(1868)、日清戦争(1894)、日露戦争(1904)という時代です。

岡山孤児院には知育の融合を目指して小学校を付設し、さらに学才のあるものには高等教育を受けさせました。

孤児院では男子には活版と理髪、女子には裁縫を学ばせ、実用的な技能をつけて自立を促しました。こうして、総計二千人以上の孤児を引き取り、養育したとされます。

彼は、身体は頑強で巨漢でしたが、おそらく、今でいう「躁うつ病」のようなものがあり、感情が不安定なことがしばしばあったようです。非常に魅力的な人間だったらしく、協力者が多かったと思われ、寄付金で孤児院を運営しています。キリスト教関係者を中心として、国内外から多額の寄付金を集めたとされます。

彼にはさまざまな協力者がいますが、炭谷小梅という女性と、山室軍平が大きな理解者であったといわれています。炭谷小梅は石井の運営する孤児院運営の主要なメンバーでした。山室は、その後、「救世軍」の最初の日本人司令官となったことで有名なので、ご存知の方も多いと思います。

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みなさま、こんにちは。読者のみなさまは、石井十次(1865~1914)という人を聞いたことがありますか。日本で最初に孤児院を作った人です。

明治から大正にかけて活動し、「孤児の父」「社会福祉の父」と呼ばれる人物ですが、残念ながら、戦後の日本ではあまり有名ではありません。私は、千葉県で県の指定する「中核地域生活支援センター」という福祉の事業所を設立するにあたり、いろいろな人と討論するうちに、「石井十次」という歴史上の人物を知りました。

彼は、慶応元年(1865年)に、現在の宮崎県で下級武士の長男として生まれました。当時の初期教育を受けたあと、岡山市で医学校に入り、医師を目指しますが、貧しい母子に出会い、その長男を引き取り、その後にも、すぐに他の二人を引き取ります。

これがきっかけとなり、明治20年(1887年)に日本最初の孤児院を設立します。その後、孤児救済に専念することを決意し、岡山の医学校を中退します。この間、カトリック入信を経て、プロテスタントに入信します。彼は、キリスト教を運動の中心的理念にすえ、孤児院はキリスト教主義に則って運営されました。

明治25年(1892)には、濃尾地震(1891)に被災した孤児のために、一時的に名古屋市に孤児院を開設し93名の孤児を収容したり、ルソーの影響を受けて「自然・労作」教育を目指し、理想的な農村共同体を実現することを考え、岡山から宮崎に孤児院を移転したり、大阪に孤児院を作ったりします。

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中角栄はチップのような形でお金をいろいろな人に配ったり、ロッキード事件を起こしたりなど、批判が多い人物ですが、人間関係・冠婚葬祭を大切にし、知識と行動力に恵まれ、「コンピュータつきブルドーザ」とも呼ばれたようです。

人に一度会うと、その人の名を覚えたといわれています。数字に強いのも特徴で、直観や体験の限界をよく知り、統計を大切にし、さまざまなデータを記憶し、活用しました。田中角栄の演説では、「私たちは人類の歴史をつないでいる」というようなフレーズがよく出てくるのですが、人類が培ってきた歴史蓄積を受け継いで自分の番をつなぎ、後世によりよきものを残したいという気持ちを強く持っていた人だと思います。 

私は、「日本列島改造論」を読んで、彼は、ひとつには「出稼ぎ」に代表される地域格差の解消を目指したのではないかと思いました。東北から男性が上京し、首都圏で建設現場などに従事し、故郷では「三ちゃん農業」といわれる年寄りと女性による農業が行われ、子供は父親のいない家庭で暮らしました。

このような家族の分断に彼は深い悲しみをもったのではないかと思います。「家庭に団らんの笑い声があふれ、年寄りがやすらぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会」とは家族が分断されることなく、地域で暮らし続け、そこで希望をもって仕事をし、家庭をつくり、老いていける社会を意味します。

彼が目指した交通網利便性獲得による地域格差解消は、現在も実現していませんが、日本国民が、地域で生まれ、働き、老いていける社会を「平和」と「福祉」に着目して作り上げていくことは、私たちにも、今の政治家にも課せられている課題のように思います。

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は、ある患者様のご遺族からその患者様が保有しておられた多数の本を頂いたのですが、その一冊に、この「日本列島改造論」が入っていました。それが私とこの本との出会いです。

この本は発刊部数が多く、現在でも古書店やインターネットで簡単に入手できるため、私はいつも数冊を保有していて、新潟県出身の人と親しくなると、この本を差し上げることにしています。新潟県出身者でも、田中角栄のことを(さすがに名前を知らない人はいませんが)知る人が少なくなってきているからです。

さらに、この本の最後には、次のような文章があります。

「志を立てて郷関を出た人びとは、離れた土地で学び、働き、家庭を持ち、変転の人生を送ったであろう。(中略)明治百年の日本を築いた私たちのエネルギーは、地方に生まれ、都市に生まれたの違いはあったにせよ、ともに愛すべき、誇るべき郷里の中に不滅の源泉があったと思う。私が日本列島改造に取組み、実現しようと願っているのは、失なわれ、破壊され、衰退しつつある日本人の”郷里”を全国的に再建し、私たちの社会に落ち着きとうるおいを取り戻すためである。(中略)日本中どこに住んでいても、同じ便益と発展の可能性を見出す限り、人びとの郷土愛は確乎たるものとして自らを支え、祖国・日本への限りない結びつきが育っていくに違いない。(中略)そして、日本じゅうの家庭に団らんの笑い声があふれ、年寄りがやすらぎの余生を送り、青年の目に希望の光が輝く社会をつくりあげたいと思う」

この文章にも私は感動を覚えました。私のように高知から出て、千葉県で働くものにはこのフレーズはぴったりでした。また、今後の目指すべき日本社会についての記述も非常にしっくり来るものでした。

強い権力者であった田中角栄には、様々なダーティーなイメージが結びついています。また、このような本は、政治の裏舞台の真実とは別の「表向きの宣伝用である」側面も大きいと思います。しかし、それを差し引いてもなお、上に引用した文について言えば、田中角栄は、これを本気で実現したかったのではないかと私は思います。

日本の目指すべき方向が、「平和」と「福祉」というのは今も真実であると私は信じます。これを1970年ごろに明確に言っていることひとつをとっても、私はこの政治家の卓見に敬服します。

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「日本のこんごの進路を一言にして要約すれば「平和」と「福祉」につきよう。外にたいしては、戦後二十五年間一貫してきた平和国家の生き方を堅持し、国際社会との協調・融和の中で、発展の道をたどることである。内について言えば、これまでの生産第一主義、輸出一本ヤリの政策を改め、国民のための福祉を中心にすえて、社会資本ストックの建設、先進国なみの社会保障水準の向上などバランスの取れた国民経済の成長をはかることである」

私はこの文章を読んだときに、震えるほど感動したのを覚えています。この文章は戦後25年後に書かれたものです。ブログ読者の方は、今後の日本が「平和」と「福祉」を目指すべきと達観した、この文章を誰が書いたかお分かりになるでしょうか。

左翼政党の人が書いたものではありません。この文章は、田中角栄(新潟県出身1918~1993)の「日本列島改造論」(1972)冒頭の章に書かれています。

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