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高知市で在宅医療に取り組む医師、和田忠志さんが、医療のことや日ごろ考えること、身辺のことを自在につづります。

 

福祉: 2009年2月アーカイブ

鎌倉時代には日本に特徴的な仏教が隆盛しました。主要なものは、法然や親鸞に代表される浄土宗・浄土真宗、日蓮に代表される日蓮宗、栄西や道元に代表される禅宗(臨済宗・曹洞宗)です。私は鎌倉仏教は非常に示唆的だと思っています。

特に法然・親鸞と、日蓮は、同じ比叡山からでて、やや異なる学問体系を信じるけれども、結局、「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」という、一つの言葉だけを唱えれば、救済されるという、そういう方法を説きます。

鎌倉時代、庶民の平均寿命は10歳に満たなかったかもしれません。私の知っている知識からの鎌倉時代の庶民実態の想像を話します。庶民の多くは、裸足に木の皮をまとって暮らし、言葉は話すが基本的には文盲だったと思います。

庶民は成人するまでに、多くの者が感染症とけがと飢餓で死に、成人に達する少数者は多くの感染症への免疫を獲得しています。出産で多くの女性は死に、一族が食べることができなければ、子供を間引きしたり、人身売買も珍しくなかったと思います。

狼や熊に襲われて死ぬ者もあり、誘拐される者もあります。人は容易に病に倒れ、あっけなく死ぬため、薬草などの民間療法は利用されているにせよ、伝説や神話が信じられ、祈祷が病やけがへの大きな対処法です。

日蓮、法然・親鸞などは、当時としては、ごく少数の高級知識人ですが、高僧のような知識人が行うことは、庶民から見ればあまりにも大きな知識差があるため、魔術的にすら見えたのではないかと思います。

そういう…今の日本人からみれば、無知蒙昧な、そして、権力者の圧政(物や使役での税務)に苦しみ、天変地異に苦しみ、次々と容易に死んでいく。

そういう庶民を救うためにはどうすればよいか。概念的な法話が理解できる人はよいとして、そういう概念的な思考すら可能でない人に「概念的思考の努力」や「論理的な理解」すら必要ないとする手法を編み出したのが法然・親鸞の天才ではないか、と思っています。

(文盲で、理解力が乏しくても)「一言を信じて唱えれば、あなたは救われる」…そういう力強いメッセージで庶民を救済しようとしたのが彼らの智慧だった、と私は思っています。

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親鸞の弟子である唯円が記載した親鸞の口伝といわれる「歎異抄」という本があります。私自身は、天理教の家に生まれましたが、現在、どの宗教にも信仰を持ちません。

信仰を持たないので、宗教に対して本当には真摯な思いで接していないとは思うのですが、それでも、さまざまな宗教の経典などを読むと、感銘を受けることが多くあります。親鸞は、ご存知の方も多いと思いますが、法然の弟子であり、浄土真宗の創始者です。

浄土真宗は、信者の自分の無力と業の深さを自覚し、自分の力ではなく、阿弥陀如来の力で成仏するという教義を有し、他者(阿弥陀如来)の力に依存するため、「他力」の宗教といわれます。その「歎異抄」の有名な文章に次の文があります。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」と云々。

信仰ですから、文章には、阿弥陀如来の力を「信じる」ことが用件になっているのですが、それはともかく、「摂取不捨のことわり」に大きな共感を私は覚えます。というのは、救済というのは、本来そうあるべきだからです。

「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」とは、この世の一般基準に照らしたときに、「最も救いがたい人々」だと思います。その最も救いがたい人を優先的に助けるのが本来の救済であるというのは、極めて理にかなった話です。

例えば、医療従事者は、「もっとも重症な人」から先に助けようとするべきです。教育者でも、金八先生が「真の教育者」として思われているのは、「もっとも困難な社会的・心理的状況の子供」に果敢に時間と労力をかけて関わるからです。

社会福祉は本来、もっとも社会的に困難な人の救済にこそ精力的にあたるべきものであり、浄土真宗の考え方は、社会福祉の理念に通じるものがあると思います。国民皆保険も生活保護も、「摂取不捨」を実現しようとする人間の智恵だと思います。

阿弥陀如来の力を持ってすれば、「いかなる救いがたい人間でも救済可能」という阿弥陀如来の力強さは、別の場所にも「『唯信抄』にも、「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。」と記載されており、「摂取不捨」とする阿弥陀如来の力の万能性は、衆生に大きな安心を与えるものです。

一「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて「善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」」と、仰せ候ひき。

「悪人こそが救いの対象」という理念は救済の基本理念として自然なものです。阿弥陀如来が、人間救済を業(なりわい)とするならば、「もっとも救済することが困難な人間」にこそ、エネルギーと労力をかけて救済するに違いないと思います。

マザーテレサは、「貧困者の中の最貧者(the poorest of the poor)」に着目しました。初期のホスピスの活動家は、街角でまさに死につつある人を暖かく遇することに意を注ぎました。その意味で、「悪人こそが救いの対象」という理念は非常に私にはしっくり来るのです。

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