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社会の最近のブログ記事
福島原子力発電所の事故は、本当にすさまじいものです。被災直後、原発付近の方々は、避難命令に従い、(そのときにはまだ生きていたかもしれない)行方不明者の捜索も十分にできないままに、着の身着のままで避難し、住み慣れた地域から去ったと思われます。
苦労して培った家や財産や仕事を失った人も多く、その無念と苦しみはいかばかりかと思います。しかし、それだけではおさまりがつきません。本当の被害はこれからだと思います。福島県およびその周辺地域は、回復にどれだけ長い時間がかかるか分かりませんし、わが国でのがんの発生や子々孫々への影響など、考えるだけでも気が遠くなるような被害の大きさです。
私は、この事故を見て、わが国は「原発を持つべきではない」と考えています。その理由は、人類は「原子力を制御するだけの十分な技術力を持たない」からです。例えば、放射能を有効に防ぐ防護服はありません。人間は宇宙船から月に降り立ち、しばらく活動することができるような防護服(宇宙服)を持ちますが、強い放射能が出ている場所で人間を保護するような防護服は持っていません。もし、強力な防護服があり、それを着用して強い放射能の場所に行くことができるのであれば、初期の数日で有効な手が打てたはずです。しかし、人類は月に降り立つことができる防護服は持っていても、強い放射能を放つ福島原発内に降り立つことができる防護服は持っていません。月に行くよりも、福島原発に行くほうが困難なわけです。それだけ、放射能に対する人類の技術は未熟です。
事故が生じた原発の放射能の制御も難しく、一度外界に放たれた放射性物質を回収することも難しいですし、外界の放射性物質の放射能をとめることもできませんし、放射性廃棄物を処理することも難しいわけです。今の人類の技術がいかに原子力に対して無力かを今回の事故は示しています。もちろん、300年後には、技術が進歩して、人類は強い放射能のなかでも安全に活動できる防護服を持っているかもしれません。しかし、今の人類の技術では、あまりにも無力で制御不能なわけです。「安全」というのは「制御できる」ということと同義です。ですから、安全なはずがありません。
電力の供給について
原子力発電所が機能しない場合の電力供給について心配がされています。電気を使用して支えられている「現在のゆたかな生活」が維持できないのではないかという危惧がもたれています。しかし、私はあまり心配がないのではないかと想像しています。私は原発を廃止しても、わが国の国民はゆたかな生活を享受できると信じています。
原子力発電所で供給される電力は「使用されている電力の三割程度」だと聞いています。たった三割です。三割の削減でよいわけです。私は日本人の技術力を持ってすれば、電力が今の7割で動く電気製品をつくることなど、まったく難しくないと考えています。すぐにというのは難しいかもしれませんが、10年か20年のうちには日本の技術を持ってすれば、それくらいのことはできると思うのです。今の原発を徐々に廃止していくのに20年かかるとしても、その20年のうちに、節電仕様の電気製品を各社が競って生産すればよいことです。
これまでの20年で、このようなエネルギー節約技術は大きく進歩しました。自動車にしても家電にしても、燃費のよいもの、電力が少なくて動くものが次々と生まれています。多くの自動車やかなりの家電は、20年前の7割以下の燃料や電力で動くのではないでしょうか。
しかも、自動車や家電の性能は格段に上がっています。これからも、この技術は進むと思います。例えば、今後の20年で、「電力を7割以下しか消費しないが、今と同じ性能かよりよい性能が出る電気製品を作る」工夫をすればよいだけです。これは、20年後に「原子力が制御できるようになる可能性が非常に低い」ことに比べて、はるかに可能性が高い技術進歩への見通しだと、私は考えます。私は、日本人は原発を捨てても、今のゆたかな生活を捨てる必要はないと思います。
今の人類の技術水準からして、無理なことをごり押しすべきではないと思います。今の人類は原子力発電所を維持するにはあまりにも技術的に未熟です。制御できない技術である原発を続けることのほうが、技術的に無理があると思います。福島原発事故のような無尽蔵の被害が起きるリスクを包含している危険な発電様式を維持することに比べて、「節電仕様の電気製品や工業用機械をつくる」ことのほうが、今人類が保有する技術水準からして、はるかに現実的で、技術的に無理のない方法です。私はこのような理由で、原子力発電はやめたほうがよいと考えています。
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桜の開花が年々早くなり、昔は、ちょうど入学式のころに桜が咲いていたのに、最近数年は、入学式の日にはすでに桜の花が散ってしまっている、というような状況になってしまっていました。ところが、今年の桜は例年より遅く、入学式の日にもしっかり咲いていました。今週も松戸では花見をしていると聞いています。
高知という場所は全体にとてもいろんなところに花が植えられていて、非常に美しい場所なのですが、桜並木は少ないようです。千葉県松戸市や東京都には、長く続く道沿いの桜並木が桜並木が多く、自動車で通っているだけでも花見の気分になることができます。
【写真】千葉県松戸市内の桜並木(2010年4月)=上と、東京都葛飾区の水元公園(2009年4月)
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政権交代が起こりました。よかったと思います。次の民主政権の仕事が、きらめくようにすばらしいかどうか、それは分かりません。政治は誰がやってもうまくいくことばかりではないと思うからです。
しかし、それ以前に、「政権交代を国民の手で行ったこと」こそが、よかったと認識しています。私は民主主義国家の本領が発揮されました。
以前「民主主義のシステムについて」で述べましたように、「いかに優れた人でも、長期に権力にいると必ず堕落する」と決め付けてかかり、権力者に長期に権力を保持させず、国民の手で権力を奪うことを保障したのが、民主主義と認識します。
民主主義システムには、いかに優れた人が権力者であろうとも、「より優れていない人にでも交代することがなおよい」という発想があります。
その意味で、「交代そのもの」に意味があります。
また、民主主義は、独裁を避けるために、その意志決定プロセスの中に、関門を設定し、紆余曲折と思える手順をもちます。例えば、衆議院の解散です。これは、見方によると「恐ろしい無駄」です。
審議されていた法案も廃案になり、改めて作り直しです。その紆余曲折の中で、権力者を縛り、民意を拾い上げようとするシステムが民主主義です。今回、衆議院の解散というシステムが生きたと思います。
世界の歴史を見る限り、自民党政権は長期政権の中では良質な政権だったと思いますが、なお多くの負の遺産をもっています。この政権交代で、多くの利権や既得権益が断たれるはずです。官僚も身が引き締まる思いをしていると思います。
国民の多くは、これまで、「自分たちが何を言おうが世の中は変わらない、永田町で政治が決まる」と思っていたはずですし、権力者にもそう思っている人がいたかもしれません。が、今回、国民は、閣僚も落選させ、総理大臣も辞任させることができることを理解したと思います。民主党政権が必ずしもうまくやることができなくても、民主主義の進歩です。
今後の日本で重視すべきことは、故田中角栄氏がいうように「平和と福祉」と確信します。そして、なんといっても、今後の世代につけを回さない政治を期待します。
国の負債は将来の増税を意味します。将来の国民を犠牲にしないで欲しいと思います。それがなくとも、生産年齢人口は減り続け、若者の負担が大きくなり続けることが分かっています。
年金問題にしても、医療制度にしても、今の子供たち、これから生まれる国民にとって非常に厳しい問題です。未来の国民が、より豊かで幸せな生活が送れるような、そういう国づくりを政治家にお願いしたいと、私は思います。
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その経験から、30代~40代になっても、ずっと親のスネをかじり続け、親の年金をせびったり、自分の意思に反すると親に狼藉を働いてしまう…という若者の事例を多く見てきました。
「近頃の若者は・・・」なんてことはないという前言を翻すようですが、やはり、「近頃の若者」というか(すでに若者と言うには30代~40代になってしまっているのですが)、そういう人が、いまの時代に多いことも、また事実だと思うのです。
実はこのことは、前回述べた「高度成長期に青年を生きた人は、まじめに働けばそれなりの財産を手にしている」こと、そのような財産をある程度持つ方々が、今、老人になっているということと無関係ではありません。このことについて、少し私が考えたことを書いてみたいと思います。
私は、現在は、「若年者が高齢者に比較して力を失っている社会」ではないかと思っています。例えば、戦前であれば、30歳の男性は、「妻や子供を残して戦争にいかなければならなかった」り、(平均寿命も短く、加齢により虚弱になる年齢も早かったため)「すでに年老いた父母を引き取る必要がある」ことも珍しくなかったはずです。
あるいは、その年になれば、「自分の親や配偶者の親の葬式を出す」こともしばしばあったと思われます。あるいは、お嫁さんも25歳くらいになると、衰え始めた姑よりも体力も気力もあり、「お母様には洗濯物たたみだけお願いします。井戸の水汲みとか、重いもの持つのは私がやりますからね。お料理も全部私がやりますから心配要りませんよ」とか言って、完全に家を取り仕切ることができたかもしれません。
ところが、現在、長寿社会の中で、通常、「30歳の男性の両親」は、多くの場合、健在です。健在であるばかりか、心身ともに高い能力を維持し、かつ、高度成長期に蓄えた資本も十分に持っている両親は珍しくありません。
そして、経済力でも、また、様々な社会的能力でも、息子の世代よりも力に恵まれていることは珍しくありません。65歳の男性は元気で、まだまだ働く気力があり、嘱託などの仕事をしながら、さらに孫を自動車で保育園に送り迎えする…。
64歳の女性は体力と能力に恵まれ、ボランティアはするし、家事は何でもするし、料理も30歳の嫁よりはるかに上手である…なんてことは、今の社会では珍しくありません。もう、若い人が、かんたんには年配の人にかなわない、そういう社会でもあります。
このような社会では、30歳の男性が、「虚弱になった親を引き取る」「親の葬式を出す」「命がけで戦争に参加する」という社会と異なり、どうしても、親に依存してしまう30歳の男性を生み出してしまう、そういう「温床」があるような気がしています。
親の持ち家に、30台や40台の息子が継続して住み続け、継続的な就労を行わず、両親に暴力をふるい、経済的虐待を行うなどの現象は、親の経済的蓄積と、親の身体的・精神的能力が維持されていることを前提としています。
もちろん、そればかりではなく、若年者の失業率が高率であるという社会背景もあります。
長寿社会はすばらしいことですが、「親の能力が高く保たれる」この時代において、「若い世代を積極的に独立させる手法」をとっていかないと、このような、若年世代が親に依存したまま継続するような状態が生み出されてしまうように思わます。
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