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半世紀以上の登山歴を持つ竹村義仁さん(高知市)が、山や自然から学び考えたことを一歩、一歩記していきます。
2008年11月アーカイブ
ポーターとはもちろん、登山隊の荷物を運んでくれる人のことです。細かに言うと3種類のポーターがいます。
その1番目は文字通りの荷物運搬人です。今回はカトマンズで105人のポーターを雇ったそうです。2台のバスに満員で乗っていたので(荷物も満載)、気分が悪くなった人もいました。
一人が約 30kgの荷物を背負って、ベシサール(Besisahar)からコト(Koto)まで50km以上の山道を歩きました。中には少女と思えるような若い女性もいました。彼らはホテルには泊まらず、どこかで野宿をしていたようです。なかなか大変な仕事です。コトから先は、47頭のロバで運びました。
2番目のポーターは、私たちに同行してくれる人たちです。コトから先ではキャンプをするので、そのキッチンスタッフもかねています。コックを含めて6人のスタッフがいました。
太陽電池パネル、発電機、パソコン、スキーなどはロバには載せられないので彼らが運んでくれました。スキーのように運びぬくい荷物を運んでいる人には本当に気の毒でした。
3番目のポーターはハイポーターといいます。シェルパともいいますが、本来はチベット系高地民族の名です。私たちは5人のパートナーを得ましたが、全員がシェルパ族でした。ハイポータは単なる荷物運搬人ではありません。きわめて高度な登山技術と能力を持った優れた登山家です。
全部のポーターをまとめるリーダーをサーダーといいます。我々のサーダーはツルさんでした。はじめのうちは、サーダーにあれこれ指図をしていました。
何しろこちらが雇用主ですから、態度はでかいわけです。しかし、いつでもツルさんの判断が的確で間違いがありません。結局、彼を全面的に信頼してすべてを任し、私たちも彼の指示に従うことにしました。
というと聞こえはよいのですが、要するにサーダーをはじめとするハイポータの登山技術も運動能力も判断力も我々よりずっと優れているので、おんぶにだっこで、全部やってもらったというのが真相です。でも、それはここだけの話にしておいてください。
会話はどうしたかというと、ハイポータとキッチンスタッフのほとんどが片言の日本語をしゃべれました。刈谷さんは片言の(ちょっとあやしい)ネパール語を話せます。
私たちもちゃんとネパール語を勉強しました。「タトパニ ディノス(お湯をください)」とか「ダンネバード(ありがとう)」など、その他数語をしゃべれます。ちゃんと。
登山という共通の場があるので、意思疎通にはあまり困りませんでした。
この11人のネパール人スタッフは、みな勤勉でよく気が回る、プロ意識に徹した人ばかりでした。点数をつけたら全員百点満点です。
私たちの登山が成功した本当の理由は、まさしく彼らの働きにありました。いま、一人ひとり顔を思い出しながら、感謝の気持ちでいっぱいになっています。ダンネバード。
【写真】川を渡るポーター。水は身を切るほどに冷たい
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2008年9月18日にベースキャンプへ到着し、私の仕事である無線機やパソコンなどの電子機器の設置をしました。
発電機の起動は刈谷さんにやってもらい、中島さんはソーラーシステムの設置をしました。
翌日にカトマンズまでメールランナーが走ってくれることになりました。これは、実際に人間が走って行くものです。カトマンズからは郵便で留守本部に送ります。
あわてて「山に聞く」の原稿を作成し、今まで撮影した写真からよさそうなものを選び出し、それらをメモリーカードへ入れました。この原稿は、結局とさあちの管理者には届いていなかったようです。
19日にはプーガオンからお坊さんが馬に乗ってやってきてくれて、プジャ(安全祈願のお祈り)をしていただきました。あいにくの吹雪でした。
その後、私の体調が急に崩れて独りで立てなくなってしまいました。20日朝に、2人のハイポータに支えられて、雪の中を下山にかかります。
押岡さんと深田さんが同行してくれました。自力でも歩きましたが、半分くらいは4人のハイポータに背負ってもらって下山するという、登山家としてまことに情けないことになってしまいました。夜になってようやくプーガオンに到着し、民家に泊めてもらいました。自力では靴を脱ぐこともできない状態で、ベットにもぐりこみました。
21日は、美人のおかみさんが食事を作ってくれたのですが、食欲もなく一日中寝ていました。「まだ、一敗地にまみれただけだ、捲土重来を果たすぞ」と思いながら。
夜になって、市村さんと入交さんも高山病のため下山してきました。結局、高山病にかからずに元気だったのは刈谷さんと井垣さんの2人だけでした。
22日になってやっと起きだせるようになり、さっそく南の丘に登りました。一歩あるいては3回呼吸をし、もう一歩あるいて5回呼吸をするといったぐあいですが、ともかく急坂を登れます(そのあたりは急斜面ばかり)。少し希望がわいてきました。
23日には裏の山へ高度順化に出かけました。ゆっくりなら登れます。
24日には市村さん、入交さんとともに、ベースキャンプへ戻るためにプーガオンを出発しまた。
そのとき麦畑の中を追いかけてくる人がいます。誰だろうと思っていたら、ベースキャンプへプジャに来てくれたお坊さんでした。不自由な足をひきずりながら必死に追いかけて来ます。何事かと思ったら、私たちのためにお祈りをしてくれました。
本当は、土煙を巻き上げて、意気揚々とベースキャンプへ戻りたいところですが、力なくフラフラ歩いています。体はよれよれでも、心には勇気が湧いてきました。プーガオンの人たちは誠に温かい人ばかりでした。
途中のパングリカルカで1泊して、25日にベースキャンプへ戻ってきました。
25日の晩は初めて全隊員がベースキャンプに揃い、紅茶で乾杯をしました。日本を出て25日もかかって、やっとスタートラインに到着したのです。ヒマラヤはまことに遠い。
【写真】19日のプジャ。赤い上着がお坊さん
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ベシサール(Besisahar)からコト(Koto)までの間は、名峰アンナプルナ(Annapurna)を周回するトレッキングコースの一部です。美しい風景と新鮮な空気をいっぱい吸い込んで楽しいトレッキング(山歩き)ができると思った人は残念です。
登山道は家畜のふんだらけです。うっかり踏みつけないように注意して歩かなければならないし、悪臭紛々としています。古いものは乾燥して粉塵になって舞っています。
ごみも散乱しています。道も石ゴロゴロでかなり歩きぬくいものです。それがトレッキングです。
コトからは、トレッキングコースを離れて奥地へ入ります。黒部峡谷のような険しい谷沿いの道になり、山も荒々しくなってきます。「あぁやっとヒマラヤへ来た」という感じになってきました。
風邪を引いた山本さんたちを残して、本隊は13日にコトを出発しメタ(Meta)に泊まりました。コトから隊荷の運搬はロバに代わりました。1 頭のロバに60kgの荷物を背負わします。
コトを出てすぐのところに大規模な崩壊地があり、そこで2頭のロバが転落したそうです。幸い怪我はなかったようです。荷物も途中で紛失することなく、全部ベースキャンプへ届きました。箱はかなり傷んでいたけど。
コトから先にはホテルはないのでキャンプをします。ただし、コックやポーターが同行してくれて、テントを張ったり食事を作ったりしてくれます。登山というよりも、大名旅行です。
「こんなぜいたくなことをしてよいのかなぁ」とずっと思っていました。
14日はメタからキャン(Kyang)に向かいます。ここで標高4000mを超え、何人かの人は未体験高度になります。私の場合は、頭が痛い熱がある、のどが痛い咳が止まらない、体がだるいなどの軽い症状にずっと悩まされていました。
15日はキャンから最終の集落プーガオン(Phugaon)に入りました。
プーガオンは川の左岸に牧草地がありそこをキャンプ場としました。床のない山小屋とシャワートイレもあります。トレッカーたちがここまで来るのでしょう。
途中でフランス人やイギリス人のトレッカー数人と会いました。川の向こう側に石造りの集落があり、村長さんの家には電話機があって、日本の留守本部と連絡が取れました。集落の上流にある山の上にラマ教の壮大な寺院があります。グーグルアースで見たプーガオンはここでした。
高度順化のために集落の裏手にある山(4746m)に登りました。そこからラトナチュリが見られるはずですが、あいにく雲の中でした。
16日には寺院(ダルマソナムディンプルチェ)を参拝しました。よき日を選んで、お坊さんがベースキャンプまで来てくれてプジャ(お祈り)をしてくれるそうです。
プーガオン着いた最初の感想は、我々が来てはならない神々の国へ入ってしまったと思いました。
プーガオンの人たちは冬はキャンなど標高の低いところへ移動するそうです。人間が生きていける限界の地です。そういうところに住んでいる人たちは真の勇者であり知恵者だと思いました。
ちょうど麦の取り入れのころで、村人たちは朝の暗いうちから夕方暗くなるまで、男も女も大人も子どももよく働いていました。気のよい人たちでもあります。
ネパールの挨拶は「ナマステ」と言いますが、「Hello」や「こんちわ」のような軽い言葉ではありません。胸の前でちゃんと合掌をして「あなたに神仏の加護があるように」と祈る言葉だそうです。
ひとりのおばあさんが、その重いナマステをやってくれたので、私はあわててステッキを握ったまま合掌をしました。
すると、今度は私の両手を握って何か感謝の意を伝えているようです。農繁期の忙しい最中に、私とそのおばあさんは(こっちもおじいさんだけど)道に座り込んで長い挨拶をしていました。
17日にはパングリカルカ(牧草地)で泊まり、18日にようやくベースキャンプにたどり着きました。もうよれよれで体力の限界です。とりあえず私の仕事である無線機やパソコンの設置などをやりました。その後、えらいことに。
【写真】キャンの先の峡谷
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私たち(高知県山岳連盟ラトナチュリ登山隊)は、予定通り2008年9月1日16:55高知空港を出発しました。
しかし、出発早々からトラブル発生です。関西空港で総隊長と隊長が酒に酔って、危うく飛行機に乗り遅れそうになりました。それで、隊員の間でひそかに言っています。「みんなでしっかり"体調"を管理しようぜ」
9月2日12:25(以降ネパール時刻)にカトマンズへ到着し、ただちに隊荷 (食料や登山装備)の梱包に取り掛かりました。日本からカトマンズへ送る荷物は1個の重さが20kgに制限されています。
カトマンズからベースキャンプまではポーターに託すので、1個の重さを30kgにします。その再梱包作業です。作業は順調にすすんで、4日にはすべて完了しました。
そこで、5日にボダナート(チベット仏教の巡礼地)へ行って安全登山の祈願をしました。
6日早朝にキャラバンに向けて出発しました。バス2台にポーターと隊荷を満載しています。こんな荷物の多い登山隊は近年なかったと、旅行代理店の人があきれていました。
ベシサール(Besisahar)へ行く途中の道路沿いで、女たちが働いている横で男たちがのんびり遊んでいる光景が見られました。「ネパールは天国だなぁ」と誰かが言うと、すさかざ「女房をしっかり働かせておいて、2ヶ月も鉄砲玉になっている亭主がどこかにいるぞ」
午後にベシサールに到着し、ホテルに泊まりました。ホテルといっても、水のシャワーだけで風呂はありません。トイレはホテルに1箇所か2箇所、形は和式トイレと似ています。トイレットペーパーはなく、桶に入った水があるだけです(水で直接洗うようです)。
電灯はありますがコンセントはありません。それもしばしば停電します。ベットはありますが寝具はありません。要するに山小屋並みの設備です。
7日にはキャラバンを開始しました。7日はナガディ(Nagadi)で泊まり、8日はジャガド(Jagat)で泊まりです。いずれのホテルも設備は同じようなものでした。
若い1人のポーターが風邪を引いて38度の熱と咳がありました。薬は与えましたが、仕事をやめもせず、30kgの荷物を背負って歩いています。すごい体力です。
そのポータの世話をしていた山本さんが、風邪を引いてしまいました。ひどい状態ではないのですが、風邪を引いたままでは高度順化ができません。大事をとってコト(koto)で休養することにしました。中島さんが付き添いで残ります。
「ベテランは計算づくだぞ。僕たちがルート工作をやったころにやってきて。「いやぁ、ご苦労さん」とあっさり登頂してしまうぞ」などと、悪口を言い合っています。
私は「日本を出たら酒断ちをする」と堅く決意をしていたのですが、国際線に乗ったらすぐにビールが出されて、うっかりそれをつかんでしまいました。私の腕はすっかり形状記憶合金になっていました。
カトマンズ初日の晩は繁華街へ夕食に出かけました。カトマンズの交通混雑はすさまじいものです。そこを酔っ払って帰るのは、「ヒドン(隠れた)クレバス地帯をザイルなしで行くようなものだ」と思って酒は飲みませんでした。しかし、一人だけいじけているのもねぇ。
結局、キャラバンが始まって標高1000mを超えたら、全員がきっぱりと酒を断ちました。いや、これは真実です。「もう、高知へ帰っても酒は要らんなぁ」といっていますが、こちらのほうはむろん信用なりません。
【写真】ベシサールのホテルで夕食。食事中に停電になってしまった
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