サイトマップ
とさあちホーム
  暮らしいきいき 高知が見える 『とさあち』  

ホームユニーク土佐人ブログ > 山に聞く

半世紀以上の登山歴を持つ竹村義仁さん(高知市)が、山や自然から学び考えたことを一歩、一歩記していきます。

 

2009年1月アーカイブ

ski01a 私たちの活動を新聞やテレビでずいぶん取り上げていただきました。その主役は当然ながら登頂した山本さんと刈谷さん、総隊長の市村さんです。ことのついでに、私も高知新聞にでかでかと載せていただきました。ちなみに女房にはずいぶんしかられました。

他の隊員はマスコミにあまり注目されていませんが、もちろんそれぞれ大活躍しています。

例えば、中島さん。

彼は、標高6200mのC1で登頂を断念したけど、6300mあたりからスキー滑降をしました。断崖絶壁のような雪の斜面です。5000- 6000mの高度では、ただ歩くだけでもゆっくりしか動けません。

彼の話では、「滑っているときは必死でわからないが、止まったとたんに息ができなくて気絶しそうになる。長くは滑れない」のだそうです。他のメンバーがスキーをあきらめたのに、そんなところを滑り降りる度胸に感服します。

また、ベースキャンプでは、彼が吹くオカリナが皆をいやしていたし、彼がいると(かなりボケをかましていたので)笑いが絶えませんでした。

押岡さんもすごい。登頂をあきらめたことはさぞかし無念だったと思います。その傷心の中、ベースキャンプからの帰路を嘔吐と下痢に苦しみながら、凍傷にかかった足でついに歩き通しました。

カトマンズへ帰ったときには骸骨のようにやせ細っていました。その気力は、登頂以上の価値があります。彼は会計係だったので、準備段階からずっと一番しんどい仕事をしっかりこなしていました。

井垣さんは高山病に罹らずに元気に活動していました。日頃からたゆまずトレーニングをやってきた成果です。井垣さんや深田さんの静かで穏やかな人柄は、私のような気性の荒いものをうまく受け流して危機を救っていました。

誰にも注目されなくても、なにも評価されなくても、「あせらずなまけず、決して挫けない」でこつこつ努力を積み重ねていくやつは、誰もが真の登山家であり英雄です。

この遠征で「まことに良い仲間を得た」としみじみ思いました。

野村さん、川添さん、お便りありがとうございます。野村さん、写真やアドバイスありがとうございました。おかげさまで、登頂に成功し、全員無事に帰還できました。

ラトナチュリ報告会と写真展を以下のように開く予定です。皆さん、どうぞお越し下さい。

報告会 2月19日18時 高知会館(高知市)
写真展 2月11日-24日 紙の博物館(いの町)

写真展では報告書とDVD(テレビ放送されたもの)を販売しようかという話になっています。報告会においでた方には報告書をお渡しする予定です。こちらは(参加費がかかるので)たぶん無料になると思います。(いずれも未定)

山岳連盟に加入している山岳会の会員には、所属山岳会から連絡があると思います。そのほかの方はどなたに案内状を出したらよいか、総隊長の市村がだいぶ悩んでいるようです。案内状が来なくても、ぜひお越し下さい。

【写真】6000mを滑降する中島さん

A090120028 らんたんさんがコメントをつけてくださっているように、私たちラトナチュリ遠征隊は第16回高新大賞をいただきました。高新大賞とは、財団法人・高知新聞厚生文化事業団が高知県民を元気づけるような活動をした個人や団体に毎年贈っている賞だそうです。


そんなたいそうな活動をしたわけではないのですが、まぁ「県民を元気づけるような」ことには、多少なりともなったのでしょうか。もし、そうであれば良いのですが。


今回、「平均年齢64歳」がずいぶんと話題になりしまた。「還暦を過ぎてもなお果敢に挑戦する姿が多くの県民を元気づけた」と評価していただきました。ただ、あまり年齢には関係ないと思います。

歳は取っても、日頃からこつこつトレーニングを積んでおり、良い仲間と優れたハイポータに恵まれれば、ヒマラヤの易しい方の山ならば誰でも登れます。ヒマラヤと一口に言っても、K2のような難しい山からエベレストのような?易しい山までいろいろあります。「なぁに、エベレストなんて、ありゃぁ観光地だよ」と私たちはふざけています。

ただ最近のヒマラヤは、地球温暖化のせいでしょうか、氷河や雪が少なくなって登攀が難しくなっています。ラトナチュリも1996年の信州大学隊の時よりも難しくなっていました。

また、私たちがやったオーソドックスなポーラーメソッド(極地法)登山は、今どきはやりません。大勢のポーターを雇って何日もかけてキャラバンをするような形態は古いのです。最近は、手近の山で高度順化をやっておいて、ヘリコプターで一気にベースキャンプへ入る、といったアルパインスタイル登山が主流です。私たちには、それをやるだけの体力がなかったのです。

1月20日に高知市内のホテルで表彰式がありました。うれしいことに、リハビリ中の深田さんも出席できました。奥さんに付き添ってもらって杖をつきながら、自力で歩けるようになっています。

「やったぁ。良かった」と、皆で大喜びをしました。「杖じゃなくてピッケルがいるろがよ」とか、(釣りもやるので)「竿の方がえいぞ」などと、もう混ぜっ返しています。

副賞として100万円をいただきました。これは高知県山岳連盟へ寄付して海外遠征基金にしようという話になっています。遠征費用の方は大勢の方からご寄付をいただいて、何とか足を出さなくてすみました。誠にありがとうございました。

帰国直後の記者会見で山本さんは、(思わず)「次はマナスルへ行きたい」と言ってしまいました。キャラバンの帰路に雄々しいマナスルを眺めて「あーぁ、あれに登りたいものだ」と皆で話しました。

記者の質問でついうっかり出てしまったのでしょう。カトマンズでは地図を買っていたのでまんざらでもなかったかもしれませんが。 私はもう二度と行くつもりはなかったのですが、いつもの登山がそうであるように、今はまた行きたいと思うようになっています。

意欲は大いにありますが、ただ、先立つものがないので、もうちょっとむりですね。 ひゃくまんえん、ちょうだい。

【写真】賞状を持ってるのが私。金一封の方が良かったなぁ。

気に入ったら押してください→人気ブログランキングへ

IMG_0472 このブログをずっと読んでくださっている方は、私をひどい飲んべえだと思っているのではないでしょうか。

そんなことはありません。酒は、少々たしなむ程度です。

晩酌はほぼ毎日やりますが、夏ならビール(正しくは発泡酒等)350ml缶を1本だけ、冬なら日本酒を1合だけです。

友達が「それじゃ足らんだろう」と聞く。「うん、たらん」

「欲求不満がたまる一方だろうが」「いや、ざんしんだよ」

「ザ、ザンシン?」

そう、残心、心をここに残しておくことです。

なんであれ、願望が完全に満たされてしまうと、もうそれでおわりです。その先はありません。あともうちょっとで満たされる、そのちょっとを土佐弁では「ちーびっと」といいます。そのちびっとの状態こそが至福の時です。

だから私は、あえてラトナチュリの頂上まで登りませんでした。そのちーびっと手前の西峰の頂でやめました。だから私の心はいつまでもそこにとどまって、なお攀じ登ろうとしています。

アンナプルナ山群の白銀の峰々を眺め、荒涼たるチベット高原に思いをはせ、成層圏まで見晴るかすかと思う紺碧の空を飛び、そして、ラトナチュリの頂に祈りを捧げています。神仏の住み給うその場所で。

あーぁ、何という豊かなことだろうか。頂上まで登ってしまったやつは本当に気の毒だ。うん。

ということを肴にして、今夜も一杯やろう。「我、こののち五十年生きるを能わず」。ただ、心をここに残しておくために。

さぁさぁ、あんたにも一献。どうぞ。

【写真】ラトナチュリ本峰(右)と西峰

気に入ったら押してください→人気ブログランキングへ

koto01.jpg
「ザイルの仲間」とは、「一緒に岩登りをする友達」という意味ですが、「命をかけてもかまわないと思うほどの信頼できる親友」の意味もあります。いまではもう、かんぜんに死語ですかね。

ヒマラヤから帰ってきたとき、ある友達が真っ先に聞いたことが「喧嘩は?」でした。ヒマラヤのような厳しい環境にされされていると、仲のよかったはずの仲間でも、もめ事が絶えず、しまいには登山隊が分裂したり、帰国後二度と口をきかなくなったりすることがあるそうです。

その点、今回の遠征ではそういった危機は一度もありませんでした。

むろんトラブルはいくつもありました。たとえば、私と深田さんが西峰のナイフリッジを登っているときのことです。

ナイフリッジとはナイフの刃のように鋭く切れ落ちた雪の尾根です。私が登っているロープを深田さんが登ろうとします。私はロープに引っ張られて危うく雪稜からふり落とされそうになりました。

「待て待て!! 登るなーっ!!」と怒鳴っているのですが彼には聞こえません。実は少し耳が遠いのです。思わず声を荒げて「補聴器をやっちょけよ」と怒ってしまいました。彼は「すまんすまん。わりいわりい。俺が悪い」と平身低頭しています。

ここで彼が「おんしゃ(お前)がぐずぐすしちゅうからじゃいか」といえば喧嘩になってしまいます。そんな了見の狭いやつではないのです。

深田さんはいま脳溢血と闘っています。了見の狭い私は「あんなことで怒らなければよかったなぁ」といましきりに反省しているところです。すまんすまん。

当初、彼の耳が遠いことが問題になりました。落石や雪崩があってもわからないので危険なのです。すると、山本さんが「誰かが深田にくっついちょりゃ良いじゃか」とさらりと言いました。みんなが彼の耳になれということです。まことに勇気のわく言葉です。

「チームワークとは、人の足らざるを補うこと」です。今回の隊員は、誰もが互いに目になり耳になり、手になり足になって補い合っていました。このあたりはやはり年の功でしょう。といいたいところですが、要するに誰もが半人前になってしまったので、誰かに助けてもらわないことには何ともならないのです。

物忘れもひどいので、「○○はここへ置いたぞ」「おっし」といちいち確認をしていました。確認したって無駄ですね。何しろ誰もが重度の"アルコールハイマー"に罹っているので、確認したまますっかり忘れているのです。「おい、何ゃぁどこにある」「またかや」
誰もがそんなどんくさい(のろまな)状態ですから、腹が立つ前に笑い転げてしまって、喧嘩するところまで行かなかったのです。

げに、ザイルの仲間はまっことえいもんじゃ。

【写真】帰路、コトの宿屋で。山本さん撮影

気に入ったら押してください→人気ブログランキングへ
tohanoete.jpg
話はヒマラヤに戻ります。

10月12日午後に、私は登頂をあきらめ、疲れきってよれよれになって、ベースキャンプへ戻ってきました。仲間たちは、ただ独り残っていた兵士をまるで凱旋将軍のように万雷の拍手で迎えてくれました。うれしかった。

「あぁこれで仕事は終わった」と思ったら、総隊長が「明日メールランナーが走るので、報道機関へ渡すデータを作ってくれ」といいます。疲れた体に鞭打って、咳でゴホゴホいいながら、パソコンと格闘していました。

13日の夜は、コックが登頂祝いのケーキを作ってくれました。サーダーからはウイスキーのプレゼントがありました。

16日にベースキャンプの閉村式を行い、17日に27日間過ごしたベースキャンプを後にし、帰途に着きました。

パングリカルカまで下ってくると、川のほとりで誰かが手を振っています。誰だろうと思ったら、プジャ(お祈り)に来てくれたお坊さんでした。

私たちの帰りをそこでずっと待っていてくれたようです。パングリカルカの家に招かれて、登頂のお祝いのお祈りをしていただき、お茶(牛乳のような飲み物)をご馳走になりました。

プーガオンのキャンプ場には、何人かのトレッカーがテントを張っていました。行くときには誰もいなかったので、その様変わりにびっくりしました。トレッキング街道も大勢のトレッカーでにぎわっていました。

大部分はヨーロッパの人たちで、なぜかフランス人を一番多く見ました。私の知る限り日本人はいませんでした。陽気なフランス人は、深刻な顔で歩いている私たちを景気づけようとしていました。私は、「いま禅をやっているところだ」と言ってやったのですが、下手な英語だから通じなかったようです。

帰りのキャラバンは、がんがん飛ばして6日でカトマンズへ着きました。ちなみに、行くときは高度順化もあったので13日かかっていました。といっても、私たちの歩く速度はネパール人やヨーロッパ人よりもずっと遅いのです。体力の違いですかね。

ベシサールの手前ブルブレ(Bhulbhue)までよたよたしながら帰って来るとジープが停まっています。サーダーが気を利かせて手配してくれたのです。そこはひどい悪路で「歩いたほうがましだ」といいながら大喜びをしたものです。

私はキャラバンの間中ずっと歯痛で頭がボーとなっていました(歯痛がなくてもボーとしているけど)。それは良いほうで、押岡さんは下痢と嘔吐に苦しんでいました。凍傷にやられた足で80kmを越える山道をよく歩いたものです。山本さんも膝が痛くて苦しんでいました。2人のために馬を雇おうとしましたが、手配できませんでした。

カトマンズへ着いたときには誰もがガリガリにやせ細っていました。咳も止まらなかったので、「捕虜収容所か結核病棟だ」と大笑いをしたものです。

2ヶ月間近く風呂に入らず、洗濯もせず、歯も磨かなかったのでひどい状態になっています。しかし、私たちが泊まったホテルはお湯が出ません。屋上に太陽熱パネルがあるだけでボイラーがないので、夕方の早い時間でないとお湯が出ないのです。それもちょろちょろしか出ず、なかなか湯船にたまってくれません。「たっぷりのお湯にゆっくり浸かって、カツオのたたきを食べたい」とうなされていました。

カトマンズには22日に着き、24日には観光省へ行って登山終了届けを出して、これで正式に遠征登山が終了しました。しかし、帰りの飛行機を予約していたので、まだ帰れません。結局、カトマンズに1週間ちかく滞在していました。何をすることもなく。

2008年10月30日ようやく高知の地を踏むことができました。は~、長かった。

押岡さんの視力障害は一時的なものであり、深田さんと押岡さんの凍傷も軽いもので、指を切断するような事態にはなりませんでした。"捕虜"たちの体力もいまは回復しました。

身の程知らずの私たちが、全員6000m以上の雪壁を登攀し、無事に生還できたのは、常日頃からお神酒をけっして絶やさなかった信心の賜物だと思っています。

ただ、深田さんが帰国して5日目に脳溢血で倒れました。もし、これがハイキャンプだったら手の施しようもありませんでした。天の配剤でしょうか。

彼はいまリハビリに励んでいます。6800mまで登った男です。きっと復帰するでしょう。深田がんばれ。8人の「ザイルの仲間」がしっかりアンザイレン (登攀ロープでつながっている)しているぞ。

【写真】登はんを終えて

気に入ったら押してください→人気ブログランキングへ

最近のコメント

「地球は回る」竹村義仁さん

「地球は回る」田中真弓さん

「地球は回る」よしださん

「マルチプレート」ペンション・サライ「高知鷲尾山岳会・川添浩介」さん

「プーガオン」ペンション・サライ「高知鷲尾山岳会・川添浩介」さん

「プーガオン」ニューハーフさん

「障害者でも登れる山」ペンション・サライ「高知鷲尾山岳会・川添浩介」さん

「高新大賞」千葉 徹さん

「志を高く 登山家はつらいよ」千葉 徹さん

「志を高く 登山家はつらいよ」千葉 徹さん

このアーカイブについて

このページには、2009年1月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2008年12月です。

次のアーカイブは2009年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.01