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半世紀以上の登山歴を持つ竹村義仁さん(高知市)が、山や自然から学び考えたことを一歩、一歩記していきます。

 

ヒマラヤ登山の最近のブログ記事

ratona01 先日、遠征隊の打ち上げ(解散式)を行いました。

今回は「内助の功の嫁さんも呼ぼう」ということになり、入院中の深田さんをのぞく8人の隊員とその夫人、留守本部の3人が参加しました。例によって賑やかで楽しい「おきゃく(宴会)」になりました。

内助の功ということで私の女房も話題に載りました。私がヒマラヤへ行こうかどうしようかと迷っている時に、女房がへそくりを出した、という話が高知新聞に載っていたのです。

じつは、女房にはたいへん親しい友達がいまして、その彼女は生命保険の外交員をやっています。

喧噪のカトマンズ、緑豊かなトレッキング街道、荒々しい大峡谷、地上の楽園プーガオン、ベースキャンプに広がる紺碧の空、神々しい白銀の山々…。

楽しくて、しんどかった日々をいま思い出しています。夢のようです。

これでラトナチュリ遠征隊は解散します。

たくさんの方々に支援していただきまして誠にありがとうございました。おかげて、赤字も出さず事故もなく、無事に全ての行事を終えることができました。

深田は順調に回復しており、押岡の凍傷も良くなりました。みなさん、どうもありがとうございました。

何人かが「次はマナスルへ行くぞ」と言っています。むろん、冗談ですが…。

【写真】2月19日の祝賀会

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IMG_3570 写真展会場で聞かれた二つ目に多い質問は、ヒマラヤの麓に住む人たちの暮らしぶりでした。

私たちがキャラバンで通った最後の集落がプーガオンです。何でも、ネパール政府がここに住んでいる人たちがいることを掌握したのはほんの数十年前のことだそうです。

つまり、ここは独立した国だったのでしょう。発見された当初は外国人立ち入り禁止になっていたようです。そういう僻地であり、人間が生きていける限界の地です。

プーガオンには30世帯ほどの人たちが住んでおり、農業と牧畜で生計を支えています。私たちが見た農作物は麦で、急な断崖の上に段々畑を築いています。

千枚田どころではないので「なんまいだ、万枚田」とふざけていました。ちょうど麦の取り入れの時期で、小さい子供達まで大きな麦の束を背負って断崖を降りてきていました。
足下がずるずるとずり落ちるザレ(砂礫地)の急崖をすたすたやってくるのにはビックリしました。

牧畜はヤクや羊を見ました。かわいらしい女の子が羊の群れを追っていました。ここの子ども達はみな働き者です。

プーガオンは標高約4000メートルですが、標高5200メートルのベースキャンプあたりまでヤクが登ってきていました。

私たちなら2日かかるその距離が彼らの生活圏になっているようです。ベースキャンプへプジャ(お祈り)に来てくれたお坊さんといっしょに小さい女の子が遊びにきてくれました。じいちゃんは馬に乗って、孫は歩かしているのです。

集落の上流にある丘の上に壮大なチベット仏教の寺院があります。このような立派な寺院はカトマンズ以外では見ていません。私たちが訪れたときには数人の尼さんがここを守っていました。グーグルアースに載っているプーガオンはこの寺院を指しています。

ここの人たちが何を食べているのかよく知りませんが、私たちが高山病に倒れて民宿した時には、ネパールの定番料理「ダルバート」が出ました。ごはん(私たちが言うところの外米)に豆のスープと、おかずが1品ついたものです。

このあたりに水田はなかったので、私たちのために構えたのでしょう。牛乳のような飲み物もいただきました。

集落の対岸にキャンプ場があります。トレッキング(ヒマラヤの麓歩き)のメインルートではないのですが、シーズンにはトレッカーがぽつぽつやってきます。私たちもキャンプ料を支払いました。そういった現金収入は多少あるのでしょう。

プーガオンの集落は、日本なら一雨来たら崩れてしまいそうな脆い崖の上にあります。さすがに崖の端にある家には(遠くから見ると)人が住んでいる様子ではありませんでした。
家は全て石造りです。石で壁を築きそのすき間に土を詰め、屋根は木を何本も渡して土を詰めています。その辺りには大きな木は全くないので、建築材や燃料にする木ははるか遠くから運んできたのでしょうか。

中にぽつぽつ太陽電池パネルを載せている家があり、照明に使っていました。村長宅には衛星電話機があって、総隊長がそれを借りて日本の留守本部と連絡を取りました。

冬にはそこに暮らせなくて、もう少し標高の低いところへ移動するそうです。なかにはカトマンズまで行く家族もいるそうです。だんだんと、独立国としての様子は薄れて、都会化しているのでしょう。よそ者の思いとしては寂しい限りです。

隊員の誰もが、この村にはもう一度行ってみたい、あの子どもたちに会いたいと思っています。良いところです。

【写真】プーガオン

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harken 転落を防止するためにザイル(綱)を使います。普通は2人が一組になって、1人が登攀している間、他方が確保しています。

いま登攀しているものをクライマー、確保しているものをビレイヤーと言います(トップ、セカンドともいう)。

クライマーは自身の安全ベルトにザイルの一端を結び、そのザイルはアンカー(確保支点)を通してからビレイヤーが保持します。

アンカーとは、氷や雪に打ち込んだ大きな釘(アイスハーケン)です。

雪の場合にはスノーバーと呼ぶアルミのL型アングルをハンマーで打ち込み、氷の場合はねじ込み式のアイススクリューを使います。

アイススクリューはパイプにねじを切ったようなもので、回転させることによって氷の中に喰い込んでいきます。

クライマーは適宜アンカーを打ち込み、それにザイルを通しながら、よじ登ってゆきます。

もし、クライマーが墜落したときは、ビレイヤーが素早くザイルを保持します。折り返した2本のザイルを手で掴んだりビレイ器具を使って、ザイルが流れ出て行くのを止めます。

クライマーは、直近のアンカーから先に伸びたザイルの長さ分だけ転落しますが、それ以上の墜落を免れます。ビレイヤーも自身が転落するのを防ぐために、近くに取ったアンカーと自身の安全ベルトをあらかじめつないでおきます。

クライマーがザイル1本の長さを登攀すると、最後のアンカーにロープを固定します。この固定するロープは登攀に使用するザイルとは別の種類の綱を使います。登攀用のザイルは、強い衝撃が加わると伸びるタイプです。

伸びることによって、アンカーやクライマーに加わる衝撃を和らげます(手で引っ張ってびゅーんと伸びるわけではない)。固定用のロープは衝撃によって伸びないタイプの綱です。

固定ロープが取り付けられると、2番目以降の者はアセンダー(登行器)を使って登ってゆきます。アセンダーとはロープに取り付ける器具で、上方には移動するが下方には移動しない構造になっています。アセンダーは自分の安全ベルトにつないでいるので、転落を免れます。

ヒマラヤでの登攀では、高度順化や荷揚げ(登攀器具やテント食料などの運び上げ)をするため、何度も登ったり下ったりをしなければなりません。それで、ロープは固定したまま置いておきます(登山活動が終了する最後に回収する)。したがって、固定ロープはたくさんの数(長さ)が必要になります。

今回のラトナチュリではカチンカチンに凍った硬い氷(ブルーアイス)は少なく、氷壁といっても雪が固まったもので、アックスやアイゼンがビシビシ効くので、雪壁よりもむしろ登りやすいものでした。

しかも、登攀活動(固定ロープを取り付ける作業)の大部分はハイポーターがやってくれました。私がやったのはアセンダーを使って固定ロープを登るだけでした。つまり、上記の登攀行動はあくまで解説です。はい。

【写真】 スノーバー(左)、アイススクリュー(中)、アセンダー(右)

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axe 写真展にはたくさんの方においでいただきまして誠にありがとうございました。

テレビや新聞でだいぶ報道されたので、皆さん関心も高く、来場者も多かったようです。

「すごいことをやりましたねぇ」とお褒めの言葉もたくさんいただきました。たいへん恐縮しています。私たちは、チンタラチンタラとただ珍道中をやっていただけで、そんなたいそうなことはやっていないのですがねー。

会場で応対していて、良く受けた質問は、ヒマラヤ山麓に住む人たちの暮らしと、氷壁登攀(とうはん)技術に関するものでした。

ここでは、「どうやって氷や雪の壁をよじ登るのか」という疑問にお答えします。

垂直に近い氷の壁をよじ登るには、アックスとアイゼンを使います。アックスとは、柄の短いピッケルだと思ってもらえばよいでしょう。普通は両手に持つので片手にピッケル、他方にバイルを持ちます。

バイルとは、頭部に鳶口のような尖ったもの(ピッケルと同じ)とハンマー(金槌)がついたものです。ハンマーはアイスハーケン(氷釘)を打ち込むときに使います。鳶口は氷壁に打ち込んで手がかりを得るために使います(いずれも同じものだが、ピッケルと(アイス)バイルを総称して(アイス)アックスという)。

アイゼンは登山靴に取り付ける鋼鉄爪です。垂直の氷壁をよじ登るときには、つま先に4本の爪が飛び出したタイプを使います。これを前爪(俗に出っ歯)といいます。

両手のアックスと両足のアイゼンで、X型になって氷の壁に取り付きます。アックスの鳶口を氷面にしっかり打ち込み体を支えている間に、アイゼンの前爪を蹴り込んで数歩よじ登ります。

次は手を1本ずつ動かしてさらに高い位置にアックスを打ち込みます。この動作を繰り返して氷壁をよじ登ってゆきます。

【写真】写真展に展示した登攀用具。ピッケル(左)、アイゼン(中)、バイル(右) 

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A090120028 らんたんさんがコメントをつけてくださっているように、私たちラトナチュリ遠征隊は第16回高新大賞をいただきました。高新大賞とは、財団法人・高知新聞厚生文化事業団が高知県民を元気づけるような活動をした個人や団体に毎年贈っている賞だそうです。


そんなたいそうな活動をしたわけではないのですが、まぁ「県民を元気づけるような」ことには、多少なりともなったのでしょうか。もし、そうであれば良いのですが。


今回、「平均年齢64歳」がずいぶんと話題になりしまた。「還暦を過ぎてもなお果敢に挑戦する姿が多くの県民を元気づけた」と評価していただきました。ただ、あまり年齢には関係ないと思います。

歳は取っても、日頃からこつこつトレーニングを積んでおり、良い仲間と優れたハイポータに恵まれれば、ヒマラヤの易しい方の山ならば誰でも登れます。ヒマラヤと一口に言っても、K2のような難しい山からエベレストのような?易しい山までいろいろあります。「なぁに、エベレストなんて、ありゃぁ観光地だよ」と私たちはふざけています。

ただ最近のヒマラヤは、地球温暖化のせいでしょうか、氷河や雪が少なくなって登攀が難しくなっています。ラトナチュリも1996年の信州大学隊の時よりも難しくなっていました。

また、私たちがやったオーソドックスなポーラーメソッド(極地法)登山は、今どきはやりません。大勢のポーターを雇って何日もかけてキャラバンをするような形態は古いのです。最近は、手近の山で高度順化をやっておいて、ヘリコプターで一気にベースキャンプへ入る、といったアルパインスタイル登山が主流です。私たちには、それをやるだけの体力がなかったのです。

1月20日に高知市内のホテルで表彰式がありました。うれしいことに、リハビリ中の深田さんも出席できました。奥さんに付き添ってもらって杖をつきながら、自力で歩けるようになっています。

「やったぁ。良かった」と、皆で大喜びをしました。「杖じゃなくてピッケルがいるろがよ」とか、(釣りもやるので)「竿の方がえいぞ」などと、もう混ぜっ返しています。

副賞として100万円をいただきました。これは高知県山岳連盟へ寄付して海外遠征基金にしようという話になっています。遠征費用の方は大勢の方からご寄付をいただいて、何とか足を出さなくてすみました。誠にありがとうございました。

帰国直後の記者会見で山本さんは、(思わず)「次はマナスルへ行きたい」と言ってしまいました。キャラバンの帰路に雄々しいマナスルを眺めて「あーぁ、あれに登りたいものだ」と皆で話しました。

記者の質問でついうっかり出てしまったのでしょう。カトマンズでは地図を買っていたのでまんざらでもなかったかもしれませんが。 私はもう二度と行くつもりはなかったのですが、いつもの登山がそうであるように、今はまた行きたいと思うようになっています。

意欲は大いにありますが、ただ、先立つものがないので、もうちょっとむりですね。 ひゃくまんえん、ちょうだい。

【写真】賞状を持ってるのが私。金一封の方が良かったなぁ。

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「ザイルの仲間」とは、「一緒に岩登りをする友達」という意味ですが、「命をかけてもかまわないと思うほどの信頼できる親友」の意味もあります。いまではもう、かんぜんに死語ですかね。

ヒマラヤから帰ってきたとき、ある友達が真っ先に聞いたことが「喧嘩は?」でした。ヒマラヤのような厳しい環境にされされていると、仲のよかったはずの仲間でも、もめ事が絶えず、しまいには登山隊が分裂したり、帰国後二度と口をきかなくなったりすることがあるそうです。

その点、今回の遠征ではそういった危機は一度もありませんでした。

むろんトラブルはいくつもありました。たとえば、私と深田さんが西峰のナイフリッジを登っているときのことです。

ナイフリッジとはナイフの刃のように鋭く切れ落ちた雪の尾根です。私が登っているロープを深田さんが登ろうとします。私はロープに引っ張られて危うく雪稜からふり落とされそうになりました。

「待て待て!! 登るなーっ!!」と怒鳴っているのですが彼には聞こえません。実は少し耳が遠いのです。思わず声を荒げて「補聴器をやっちょけよ」と怒ってしまいました。彼は「すまんすまん。わりいわりい。俺が悪い」と平身低頭しています。

ここで彼が「おんしゃ(お前)がぐずぐすしちゅうからじゃいか」といえば喧嘩になってしまいます。そんな了見の狭いやつではないのです。

深田さんはいま脳溢血と闘っています。了見の狭い私は「あんなことで怒らなければよかったなぁ」といましきりに反省しているところです。すまんすまん。

当初、彼の耳が遠いことが問題になりました。落石や雪崩があってもわからないので危険なのです。すると、山本さんが「誰かが深田にくっついちょりゃ良いじゃか」とさらりと言いました。みんなが彼の耳になれということです。まことに勇気のわく言葉です。

「チームワークとは、人の足らざるを補うこと」です。今回の隊員は、誰もが互いに目になり耳になり、手になり足になって補い合っていました。このあたりはやはり年の功でしょう。といいたいところですが、要するに誰もが半人前になってしまったので、誰かに助けてもらわないことには何ともならないのです。

物忘れもひどいので、「○○はここへ置いたぞ」「おっし」といちいち確認をしていました。確認したって無駄ですね。何しろ誰もが重度の"アルコールハイマー"に罹っているので、確認したまますっかり忘れているのです。「おい、何ゃぁどこにある」「またかや」
誰もがそんなどんくさい(のろまな)状態ですから、腹が立つ前に笑い転げてしまって、喧嘩するところまで行かなかったのです。

げに、ザイルの仲間はまっことえいもんじゃ。

【写真】帰路、コトの宿屋で。山本さん撮影

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話はヒマラヤに戻ります。

10月12日午後に、私は登頂をあきらめ、疲れきってよれよれになって、ベースキャンプへ戻ってきました。仲間たちは、ただ独り残っていた兵士をまるで凱旋将軍のように万雷の拍手で迎えてくれました。うれしかった。

「あぁこれで仕事は終わった」と思ったら、総隊長が「明日メールランナーが走るので、報道機関へ渡すデータを作ってくれ」といいます。疲れた体に鞭打って、咳でゴホゴホいいながら、パソコンと格闘していました。

13日の夜は、コックが登頂祝いのケーキを作ってくれました。サーダーからはウイスキーのプレゼントがありました。

16日にベースキャンプの閉村式を行い、17日に27日間過ごしたベースキャンプを後にし、帰途に着きました。

パングリカルカまで下ってくると、川のほとりで誰かが手を振っています。誰だろうと思ったら、プジャ(お祈り)に来てくれたお坊さんでした。

私たちの帰りをそこでずっと待っていてくれたようです。パングリカルカの家に招かれて、登頂のお祝いのお祈りをしていただき、お茶(牛乳のような飲み物)をご馳走になりました。

プーガオンのキャンプ場には、何人かのトレッカーがテントを張っていました。行くときには誰もいなかったので、その様変わりにびっくりしました。トレッキング街道も大勢のトレッカーでにぎわっていました。

大部分はヨーロッパの人たちで、なぜかフランス人を一番多く見ました。私の知る限り日本人はいませんでした。陽気なフランス人は、深刻な顔で歩いている私たちを景気づけようとしていました。私は、「いま禅をやっているところだ」と言ってやったのですが、下手な英語だから通じなかったようです。

帰りのキャラバンは、がんがん飛ばして6日でカトマンズへ着きました。ちなみに、行くときは高度順化もあったので13日かかっていました。といっても、私たちの歩く速度はネパール人やヨーロッパ人よりもずっと遅いのです。体力の違いですかね。

ベシサールの手前ブルブレ(Bhulbhue)までよたよたしながら帰って来るとジープが停まっています。サーダーが気を利かせて手配してくれたのです。そこはひどい悪路で「歩いたほうがましだ」といいながら大喜びをしたものです。

私はキャラバンの間中ずっと歯痛で頭がボーとなっていました(歯痛がなくてもボーとしているけど)。それは良いほうで、押岡さんは下痢と嘔吐に苦しんでいました。凍傷にやられた足で80kmを越える山道をよく歩いたものです。山本さんも膝が痛くて苦しんでいました。2人のために馬を雇おうとしましたが、手配できませんでした。

カトマンズへ着いたときには誰もがガリガリにやせ細っていました。咳も止まらなかったので、「捕虜収容所か結核病棟だ」と大笑いをしたものです。

2ヶ月間近く風呂に入らず、洗濯もせず、歯も磨かなかったのでひどい状態になっています。しかし、私たちが泊まったホテルはお湯が出ません。屋上に太陽熱パネルがあるだけでボイラーがないので、夕方の早い時間でないとお湯が出ないのです。それもちょろちょろしか出ず、なかなか湯船にたまってくれません。「たっぷりのお湯にゆっくり浸かって、カツオのたたきを食べたい」とうなされていました。

カトマンズには22日に着き、24日には観光省へ行って登山終了届けを出して、これで正式に遠征登山が終了しました。しかし、帰りの飛行機を予約していたので、まだ帰れません。結局、カトマンズに1週間ちかく滞在していました。何をすることもなく。

2008年10月30日ようやく高知の地を踏むことができました。は~、長かった。

押岡さんの視力障害は一時的なものであり、深田さんと押岡さんの凍傷も軽いもので、指を切断するような事態にはなりませんでした。"捕虜"たちの体力もいまは回復しました。

身の程知らずの私たちが、全員6000m以上の雪壁を登攀し、無事に生還できたのは、常日頃からお神酒をけっして絶やさなかった信心の賜物だと思っています。

ただ、深田さんが帰国して5日目に脳溢血で倒れました。もし、これがハイキャンプだったら手の施しようもありませんでした。天の配剤でしょうか。

彼はいまリハビリに励んでいます。6800mまで登った男です。きっと復帰するでしょう。深田がんばれ。8人の「ザイルの仲間」がしっかりアンザイレン (登攀ロープでつながっている)しているぞ。

【写真】登はんを終えて

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京都のさわたりさんからいくつか質問をいただきました。お返事が大変遅くなってすみません。お答えします。

▲『山に登ったら何が見えるか』

ラトナチュリの西峰に登ったときには、南の方はヒマラヤの白銀の峰々、北にはチベットの赤茶けた高原が、それぞれどこまでも広がっているのが見えました。その白と黒との世界は、神仏が住み給うところだと思いました。

そうです。山に登ったら神が見えるのです。

あいにく、まだ拝謁を賜ったことはありませんが。

▲『登山中は何を考えているのか』

京都に哲学の道というのがありますね。登山道はどこでも哲学の道です。私は、登山中はいつも哲学をやっています。

もっとも、西田幾太郎のような立派な人間にはついぞなれませんでしたね。どこが違うのかなぁ。

▲『怖くはないのか』

大声を出して叫んでも誰にも聞こえない。そんな山中に独りぽつねんといることが良くあります。山は孤独なものです。ラトナチュリでは氷壁をピッケルとアイゼンでよじ登りました。

下は千尋の谷です。山では生と死は隣り合わせです。しかし、山で怖いと思ったことはあまりありません。いつも神仏の加護があるからです。

▲『山の神様は本当にいるのか』

私のブログにはいろいろ神がかったことを書いているので、怪しげな新興宗教の教祖ではないかと思われた方もいるかもしれません。

そのとおりです。私は、信仰は尊いものであり、人は誰も信心を持つべきだと思っています。ただ、宗教となると、世界のどの宗派も嫌いです。

念のために言っておきますが、尊敬できる立派なお坊さんや神父さんをたくさん知っています。しかし、宗教という団体となると何教であれ、その本来の姿を失っていると思っています。が、その話はこのブログの趣旨ではないのでやめておきます。

山に神様は確かにおいでになります。ただ、「困ったときの神頼み」といいますが、山の中で何か困ったことがあっても決して助けてくれません。あてにしないように。しょうがないから、死に物狂いになってあれこれやって、「あぁあ、あたしももうここで終わりか」と覚悟を決めてふと見ると、目の前に自分の生きて行くべき道が見えるのです。

神は人を助けはしないが、覚悟決めたものを見殺しにもしないのです。

もしも、生きることが辛いとか虚しいと思う方がいたら、自然教登山宗にぜひお入りください。必ず救われます。

あ、こういうの嫌いですか。

【写真】 チベット高原

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私たちは全員登頂を目指していたので、第1次隊に続いて第2次隊も挑戦します。しかし、支援をしてもらうはずのハイポータが休養のためベースキャンプへ戻ってしまいました。いくら屈強なハイポータでも、2回も続けて登頂することは無理なのです。ちょっと計画が甘かったようです。
 
第2次登頂隊員のうち、入交さんは高山病がどうしても抜けなくてC1まで登って断念。市村さんもC1から西峰の氷壁を見て断念してしまいました。ヒマラヤに何度か登ったベテラン登山家が撤退を決めたのに、深田さんと私は(愚かにも)頂上を目指すことにしました。
 
10月8日に、2人のハイポータとともにC1に入り、9日に西峰(6804m)によじ登って、そのすぐ先にあるC2に入りました。深田さんも私も疲れきっていて、私は自分でアイゼンが脱げないほどでした。

 深田さんは、C2からラトナチュリを眺めて「とても自分には登れない」と判断してあっさり登頂をあきらめてしまいました。あきらめの悪い私は、「明日休養すれば登れる」と思ってしまいました。

高約6800mのC2では呼吸が苦しく、咳が激しく出ました。寝ようと思って横になると息ができなくなります。体を起こせば多少はましです。つらい一夜でした。

0日になってやっと登頂をあきらめました。ここでもし高山病で倒れたら、ヘリコプターを呼ぶことも、背負って降りることもできないから、みんなに迷惑をかける。それが登頂をあきらめた理由でした。自分ではまだ登れると思っていました。実際には、登頂するだけの体力はもうなかったのですが、判断力が鈍っていたのです。

 11日の夕方に意気消沈してABCへ戻ってきました。ABCで私の帰りを待っていた中島さんは、あまりに遅いので心配して途中まで迎えに来てくれました。ベースキャンプでも「竹村が戻らない」と皆で心配していたそうです。

 私は無事に下山しましたが、深田さんは手の指が軽い凍傷になってしまいました。さすがに7000mは、生易しいものではありませんでした。

れで登攀活動は終了しましたが、結局、登頂に成功したのは2人だけでした。

もしも、全員が登頂できていたら「なんじゃぁ、易しい山だったのか」と思われてしまいます。誰も登頂できなければ、「それみたことか。無謀なことをやって」とバカにされます。

「2人が登頂に成功し、3人が西峰に登った。スキーもできた」というのは大成功だった、と自画自賛しています。

まぁ、とりあえず良かった良かった。

【写真】西峰から見るラトナチュリ

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10月4日、第1次登頂隊とハイポータは4時30分にC2を出発してラトナチュリに向かいました。私はそのときABCにいて、中島さん、井垣さんとともにビデオカメラとデジタルカメラで登頂の様子を撮影していました。

カメラのレンズを望遠側にいっぱいにしても人物は点のようにしか見えません。双眼鏡で眺めていると、頂上にかなり近くまで行って1人の人物が動かなくなってしまいました。

「何かあったか」と心配していたら、山本さんが無線で「押岡さんが目が見えなくなった」と連絡してきました。「押岡がんばれ!」3人で必死にエールを送っていました。

その人物はやがて、固定ロープを使って独りで懸垂下降をはじめました。「やった。目が見えるんじゃ」私たちは大喜びしました。しかし、固定ロープが尽きたところで再び動かなくなってしまいました。

ロープなしに下山するのは無理なのです。押岡さんは、そこで登頂隊が戻ってくるまでの6時間を待機することになり、両足の指先が軽い凍傷になってしまいました。

もう少し登ったところで、もう1人別の人物が動かなくなりました。「あれは山本か刈谷か」と心配していたら、ハイポータの1人がダウンしたそうです。さすがにネパール人は強くて、彼はその後復帰して登頂を果たします。

やがて、頂上は雲に包まれてしまい、私たちには見えなくなってしまいました。

14時すぎ、無線でハイポータが連絡している声が聞こえました。早口のネパール語なので内容はわかりませんが、「どうも登頂したらしい」と中島さんと話をしていました。

やがて、山本さんから「登頂成功」と元気な声が聞こえてきました。山本さんと刈谷さん、ハイポータ5人が登頂に成功しました。ベースキャンプにいた入交さんとともに健闘をたたえあいました。

登頂隊のほんとうの苦労は実はこれからです。頂上からC2まで今日中にくだらなければならないのです。すっかり日が暮れた星明りの中をくたくたになってC2に帰り着いたそうです。翌日はまだ、氷の壁をC1まで下らなければなりません。そして、ベースキャンプまで。頂上はゴールではなくて、単なる折り返し点に過ぎないのです。

【写真】 ラトナチュリ頂上 

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