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山で学んだことの最近のブログ記事
私が(いちおう)本職としているコンピュータの世界には難解な言葉が多くあります。「そんな難しい言葉を使わずに説明できないのか」といった声も聞きます。
私はある世界で使われている言葉を「業界用語」と「専門用語」に分けています。
業界用語とは、日常語に同じ意味の言葉があるもの、専門用語とはそうした概念がない言葉です。
その業界に入ろうとするなら、専門用語は積極的に覚えるべきです。わざわざ日常語に言い換えるよりも、専門用語を使った方が、話のスジがとおり、簡潔になり、わかりやすくなります。
しかし、業界用語は使うべきでないと私は考えています。日常語を使えばよいのです。
登山界にも「キジ撃ち」「一本立てる」「舎利バテ」「霧ション」「おかん」など意味不明の言葉が多くあります。これらは、どれも業界用語です。
ちなみに、「きじうち」は野山で大きな用を足すこと、「いっぽんたてる」は短い休憩を取ること、「しゃりばて」は空腹のために元気が出ないこと、「おかん」は野宿をすること、「きりしょん」は霧の中で降る細かい雨をいいます。
キジ撃ちも霧ションも下品な言葉(ションは小さな用事)ですが、何となく味があります。
おかんは「邯鄲の夢(かんたんのゆめ)」がその語源です。唐の慮生(ろせい)が邯鄲という町で道士の枕を借りて寝たところ、一生の栄華を夢に見て、人生のはかなさを悟ったというあの故事です。
山の中で寒さに凍えながら独り野宿をしていると、人生のはかなさ虚しさをしみじみ感じます。そういう情感がふつふつと湧いてくる言葉です。
しゃりばては、もともとは芋や雑穀ばかりで(白米を食べないので)元気が出ないという意味でした。食べるものに事欠く時代にも、未知の世界に挑戦する勇者はいたのです。
そういうことを知らなくて、ただ「腹減った」では、先人の労苦に思いをはせることがなくなってしまいます。
私が登山用語集を編纂してみようと思ったのはそのあたりにありました。言葉にはその奥に深い意味があるのです。それが忘れ去られて表面的な解釈しかせず、人間への思いが薄くなっているように思ったものです。
差別語もそうです。言葉はそれを言う人、聞く人の人格に根ざしています。心の卑しいものか使えば卑しい言葉になるし、豊かな人が使えば豊かな言葉になります。(あ、あたしが言うセリフじゃないや)言葉狩りをしてもしょうがないと思います。
登山用語集は改訂を重ねて、いまは Ver.7.0(第7版)になりました。
冗談(自分ではエスプリだと思っているが誰も認めない)もちょっと入れて、たしょう読み物風にも作っています。登山に興味のない方もちょっとのぞいてみて下さい。もっとも、3000語以上の用語を収録した長文ですから全部読むのは大ごとです。(ま、ほどほどに)
登山用語集は、高知鷲尾山岳会のウェッブに載せています。
URL(アドレス)はhttp://homepage3.nifty.com/kochiwashio/MtTerms/terms.html
です。
もし、「登山用語集」「竹村義仁」で検索すると、他の人のウェブに載せてもらっていた旧版が出てくるかも知れません。「高知鷲尾山岳会」でググって下さい。(いかん。業界用語を使うてしもうた)
【写真】赤星山のカタクリ
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あるとき、"かずお"君と岩登りの練習に出かけた。
彼がスイスイと登った岩場を私はどうしても登れない。
当時、クレッテルシューとドイツ語でいっていたが、クライミングシューズ(岩登り専用靴)が出始めたころだった。彼はさっそくそれを買って履いていた。私はキャラバンシューズ(ハイキング用の靴)である。
「お前は履き物が良いからいかん。それをよこせ」とむりやり取り上げて、彼にはキャラバンシューズを履かせた。
それで、結果はどうなったか。
全く同じことである。彼が難なく登れるところを私はどうしても行けない。
あたりまえである。
技術の悪さを道具でカバーできるわけがない。優れた技術があって、その上でよい道具を使えば、より良い仕事ができる。
技術のないものが、いくら良い道具をそろえても技術が高まるわけはない。
胴長短足の私と違って、彼はスマートな体格をしていた。当時有名だった、フランスの名山岳ガイド、ガストン・レビュファに容姿がよく似ていた。
それで私は、彼を「土佐のガストン・レビュファ」と呼んでいた。略したら土佐ガスである。(あ、いかん。高知の人間にしか分からんダジャレをゆうてしもうた)
「お前は、腕が長いから掴めるホールド(手がかり)が広いので有利なんじゃ」と、とうとう体格のせいにしてしまった。
剣山山系の三嶺(みうね、さんれい)に青ザレという場所がある。
山腹の広い範囲にわたって、ザレ(石や砂礫の急斜面)になっている。
あるとき、何気なくそこを見ていたら何か動くものがある。
「ありゃ、あがなところを登りゆう奴がおる」
そこを登る必要性など何もないのだ。双眼鏡でのぞいてみると、なんと"せいじ"君である。
大きなキスリングザックを背負って、足もとがズリズリずり落ちる急斜面をガリガリ登っている。
「げにまっこと、たまーるか、やちがない」
彼はいつでもここ一番のところで底力を発揮する。
私は「パワーのせいじ、センスのかずお」と彼らのクライミング技術を評していた。
その後、2人とも数々の山頂や岩壁を制し、いまも登山界で活躍している。かずお君は国際山岳ガイドでもある。
私も口だけなら2人に決して負けはしない。
【写真】プライバシー保護のため人物写真はない
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だいぶ前のことですが、ある山で行方不明になっていた中高年登山者10数人が自力で下した、ということが新聞に載っていました。
そのテレビニュースでは、叱責(しっせき)に近いインタビューを受けて、リーダーがさかんに謝っていました。雪が深いため目印の赤布を探すのに時間がかかったので、野宿をしたのだそうです。
道しるべ代わりに木の枝などに赤い布やテープを取り付けることがあります。それがないと道がわからないとか、ツェルト(非常用テント)などビバーク(野宿)のための装備を持っていなかったとか、このパーティの問題はあるようです。
しかし、何かのトラブルが発生してビバークすることは、登山では当たり前の行動です。それ自体は叱責される事ではありません。しかし、マスコミは一晩帰らなかっただけで大騒ぎをしていました。
私は女房に「山から帰って来なくても、何もするな」と言ってあります。警察へ捜査願いを出す必要はないということです。
「1
1日くらいなら心配しないけど、何日も経つと放っておくわけにもいかないでしょう」というので、その時は古い山仲間に連絡するように言ってあります。
その時の気象状況などから判断して、「竹村ならあのあたりでビバークしているだろう、ちょっと見に行ってみよう」とか「まぁ、ほっとけ」とかてきとーに判断してくれるでしょう。
もちろん、アクシデント(予期せぬ事態)に備えて、日帰りの山行でも、ビバーク装備を常に持っています。
ツェルト、グランドシート、断熱シート、レインスーツ、予備食、非常食、コッフェル(鍋)、ガスストーブ(コンロ)、救急薬、ヘッドランプ、無線機、ナイフ、ロープなどなど。食糧は4食分をいつも持っています。
そのため、一眼レフカメラも含めた総重量は10-15kgくらいになっています。これは工夫をしてもっと軽量化ができます。しかし、その程度のザック(リュックサック)を背負って普通に行動できなければどうしようもないとも思います。
ちなみに、山でビバーク(野宿)するときに一番必要な装備は何だと思いますか。
多くの人はツェルトを挙げると思います。ツェルトは袋状になった小型のテントで、冬山では必携でしょう。
しかし、四国の山で野宿をするようなときには、ツェルトはなくてもかまいません。野宿をしていて一番困ることは、体温を地面に奪われることです。つまり、一番必要な装備は、断熱シート(エアーマット)なのです。
私はアクシデントが起きなくてもよくビバークをします。写真を撮っていて時間が遅くなり、日暮れまでに登山口へ帰れなくはないが、まぁここで野宿しようか、などと軽々に予定を変更します。道迷いくらいで、(ビバークをすることはあっても)遭難することはありません。
私が遭難するとしたら、何でもないところでうっかり足を滑らせたりバランスを崩して転倒し、頭を岩などにぶっつけて意識不明になる、といったケースでしょう。自分の行動を観察していて、バランスを崩す状況もわかっています。疲れているときです。
登山では30分か1時間に1回休憩を取ります。私の場合は、いろいろやってみて、30分歩いて3分休むのが一番調子が良いようです。
ところが、よい休憩場所がなかったり、「確かこの先に景色の良いところがあったなぁ」などと、疲れたまま歩き続けているときに、バランスを崩して、体勢を立て直せずに尻餅をついたりすることがあります。
そういう状況になったときには、「お、ケアレスミスモードに入ったぞ」と考えて、"一本立てる"ことにしています。
一本立てるとは、その昔、山小屋に荷物を運んでいた"ぼっか"と呼ばれる人たちが、重たい荷物の下に杖をあてがって、荷を背負ったままで立ち休みしたことに由来します。1分休憩するだけでも、ケアレスミスモードを脱出できます。
あわてずあらせず、じっくり行くことがポイントでしょうか。
【写真】筒上山の頂上で日の出を待つあいだツェルトを張った
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剣山山系の三嶺(みうね/さんれい)の中腹に「さおりが原」という場所があります。最初にそこを訪れたときは、原生林の中をとうとうと流れる小川があり、そのほとりに花が咲き乱れていて、別天地に迷い込んだかと思いました。実に良いところです。
しかし、私には気に入らないことがひとつあります。その地名です。
昔にどこかで聞いた話では、歌手か女優の名前から付けたのだそうです。
そういう地名の付けかたに、私は大いに疑問を感じています。地名には重要な意
味があり、それを軽々に変えてはならないのです。
私の記憶が正しければ、もともと、この場所は「ヌル谷のなろ」と呼ばれていました。
「ヌル谷」とはここを流れている小川のことでしょう。
はじめは、ぬるぬるした谷かと思いましたが、そのような場所がみつかりません。ある山仲間が、「それは風呂の"ぬるい"(水温が低い)と同じじゃないか」と教えてくれました。なるほど、「緩やかな谷」という意味でしょう。
土佐では、山中にある平らな場所は「なろ」といいます。多くの場合「奈路」の字が当てられます。伊予では「平」の字を書いて「なる」という地名が多くあります。
「なろ」も「なる」も同じものでしょう。
一方、土佐には「~が原」という地名はありません。そういう地名を私は知りません。もちろん、「甲原」や「岩原」など「原」の字が付く地名はいくつかありますが、「かぶとがはら」ではなくて「かんばら」です。
「はら」や「ばら」はあっても「~がはら」はないのです。九州では原を「ばる」といいます。そういう風に地方によって違うのです。他の地方の地名を軽々に持ってくるべきではないのです。
とつぜん話が変わって、私が小学生の頃のことです。通学路に「滝山」という場所がありました。祖父から「滝山では立ち止まるな」と厳命されていました。
夏にはそこにカンタロウ(大きなミミズ)がたくさん死んでいて悪臭を放っていました。「あぁ、この毒ガスことだ」と思って、私はいつも息を止めて走り抜けていました。
「たき」とは断崖絶壁をいいます。山崩れや落石のある場所のことです。祖父の教えは、「そこは落石の危険があるから、のんびりせずにさっさと通過せよ」ということだったのです。この場所にこの地名を付けたのは、先人の知恵なのです。
むかしむかし、あるところに小さな村がありました。あるとき何日も大雨が続きました。長老がいった。
「おい若いしよ。こりゃいかんぞ。山が崩れる。へんしも(急いで)逃げにゃあいかん」「おじやん(爺さん)、どこへ逃げたらえいぜよ」「このそらのなろへ行け」「なろじゃねゃ」「おう、おきのたきやまは通るなよ」。村人は全員助かったのでした。めでたしめでたし。
【写真】ヌル谷のなろ
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賢者の道とは賢者が造った道です。賢者とは、自然をよく知り尽くした人です。
その筆頭は「けもの」でしょう。けものとは、野山に住む知足の賢者のことです。ちなみに、「けだもの」とは、知足を知らぬ人間の一種をいいます。お間違いなきように。
獣たちが造った道が獣道で、これは自然に逆らわずに、実に自然にできています。私も時々そうした道を使わせてもらうことがあります。ただし、人間が歩いて歩きやすい道であるとは限りません。
人間が通る道で賢者の道とは、例えば江戸時代以前に造られた道です。当時の人たちは自然のことをよく知っていました。その道は、自然に逆らわず造られており、歩いて疲れることが少なく、道に迷うことがなく、崩れることもありませんでした。
今でもそんな山道が残っているところがあります。そんなところは、例えば雪が積もるなどして道がわからなくなっても大丈夫です。辺りの景色をじっくり眺めていると、「あ、ここは右の斜面にとりつくな」とか「その谷を渡って、あの尾根へ行けば良いな」などと、道が見えてくるのです。
愚者の道とは、例えば明治時代以降に造られた道です。産業革命以降に造られた道は、自然とは無関係に造られています。自動車が走るには最適ですが、人間が歩いて歩きやすい道ではありません。江戸時代の街道は、現在の道路のように真っ平らには造っていませんでした。あえてそうしたのだと私は思っています。
道路に限らず、山の中に造られた道も、明治以降に造られた道は、歩いてひどく疲れる道です。大雨が降ったら崩れる道でもあります。
最近、登山道や遊歩道として整備された道でよく見かけるのが、丸太を木馬道か枕木のように横に置いて造った段々道です。この方が歩きやすいと思って造ったのでしょうが、ひどく疲れる道です。丸太が濡れているとつるつる滑って危ない道でもあります。そしてそんなところはたいがい崩れています。
昔、私が子どもの頃に、近所の人たちが集まって山道の手入れに出かけることがありました。その時にやっていた主な作業は溝掘りです。雨水を路肩に落とすための畝(うね)を造っていました。いまはそんな手入れをしないため、大雨の時は登山道を雨水が流れて掘ってしまいます。ところによっては"大地溝帯"になっています。
ひと頃、私は小型のスコップを持っていて、登山道の溝掘りをやっていたことがありました。「国有地や私有地を勝手にこんなことをしてはいけないかなぁ」と思いながらやっていました。
その問題もあるが、溝を掘っても無駄だとわかりました。登山者が畝を踏みつけて溝をなくしてしまうのです。昔、「敷居と溝はまたげ」と祖母に叱られましたが、いまそんな歩き方をする人はいないようです。
登山においては、この右足をどこに踏み出すべきか、一歩一歩を吟味しながら歩くものです。賢者の教えに導かれつつ。
【写真】尾根の上の方にあるのが人の道、下の方にあるのがけもの道
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登山には撤退する勇気が必要だ、といいます。頂上を目前にして、天候が悪化するなど事態が悪くなったときに、登頂をあきらめて潔く引き返す勇気が必要だ、という意味に解されているようです。
そうではないのです。事態が悪くなっているのに、がむしゃらにつき進むのはただの蛮行でしょう。撤退するのは勇気でも何でもない。あたりまえの行為です。
登山においては、天候や体調などがまだ悪くも何ともない時に、このまま進むか引き返すか決断を迫られる場面が多々あります。
例えば、縦走登山をしていて、いまA山の頂上にいる。今夜のキャンプ地はB山を越えた向こうにある。A山とB山の間は険しいところで、もし途中で事態が悪化しても突き進むしかない、引き返したところで安全になるわけではない、といった場合です。
この先、事態が悪くなるのかならないのか、悪くなったとしてどの程度悪くなるのか、その事態を乗り切れる技術や装備があるか、その時点で体力がまだ残っているか等々、はるか先のことを予測して、いま前進するか撤退するかの決断を迫られるのです。
また、「天候が悪くなりそうだから撤退しよう」と決断して下山したが、実際には悪くならなかった、ということはよくあります。そんなときに、「あぁ損をした。登山を中止するのではなかった」と後悔するものです。そうした後悔をしない決意も「撤退する勇気」なのです。
【写真】西黒森。こんな縦走路なら決断も簡単ですが
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